「『毎回1階にエレベーターを戻す』というルール」の合理性を検討してみた
↑ここで出された問題。
まず、前提を整理する。
- 2~4階の住人がエレベータを使用する
- 各階の住人は同数
- 各住人のエレベータ利用頻度も同数
- エレベータを呼ぶコストは「乗り込む階」と「エレベータが待機している階」の差の絶対値と定義する
- 同一階:コスト0点
- 一階差:コスト1点
- 二階差:コスト2点
- 三階差:コスト3点
- 住人は常にエレベータを使用して自宅から外出し、エレベータを使用して帰宅する(この1回の外出&帰宅を「1サイクル」と定義する)
- 住人同士の相乗りやエレベータの待機階への移動が間に合わない状況は想定しない
まず「住人が乗り込む階」と「エレベータが待機する階」の組み合わせ別のコスト一覧は以下の表の通りとなる。

次に各階1人の住人が1サイクルずつ移動を行う状況を考える。
このとき、各階の住人がどの階から何回乗り込むかを表した表が以下である。

つまり、このマンションで各階の住人1名が1回ずつ1サイクルの移動を行った場合、4階、3階、2階の各階からは1回ずつ(外出時)、1階からは3回(帰宅時)の乗り込みが発生することになる。
この「4階から:1回」「3階から:1回」「2階から:1回」「1階から:3回」の乗り込み回数をこのマンションにおける均等な移動の「最小単位」と考え、この「最小単位」に対して発生するコストを、エレベータの待機階別に求めた表が以下の通りである。

以上より、総コストが最小となるのは1階または2階にエレベータを待機させた場合となる。
なお、各階の住人にとって、どの階に待機させるのが一番自分自身にとってのコストが小さくなるのかという視点でみた場合の結果が以下の表である。

面白いことに、外出時と帰宅時のコストを合算すると、最上階である4階の住人にとってはどの階にエレベータが待機していてもトータルのコストは変わらない一方、3階の住人、2階の住人にとっては、自分が住んでいる階よりも上階にエレベータが待機している場合に、急激にコストが上昇していくことが見て取れる。
これはつまり、自分の住んでいる階と同じかそれよりも下の階にエレベータが泊まっていれば、行きと帰りでコストの有利不利が相殺されるが、住んでいる階よりも上階にエレベータが停まっている場合には、ただただ不利になるという理屈が可視化された結果だろう。
(付け加えると、だから誰一人「ただただ不利になる」人が発生しない1階もしくは2階にエレベータを待機させる場合にトータルコストが最小となり、上階に待機させるほど「ただただ不利になる」人が増えるため、トータルコストも大きくなっていくのだと思われる)
なお、当然ながらこのモデルは簡便化したものなので、実際には運用にまつわる諸条件によって結論は全く異なるものになるであろうことは、念の為補足しておく。
以上、適当にExcelをつかって検証してみたが、あまり自信はないので、もしも間違っていたら優しく指摘してくれると嬉しい。
侵害論争の虚しさ 著作権は消滅する?
2025年9月末、AI動画生成モデル「Sora2」が公開されるや否や、ネットは大騒ぎになった。
「これもう新作アニメだろ」「アニメ業界が終わった」――そんな声とともに、「著作権どうするんだ」「既存IPを丸パクリじゃないか」といった怒りや不安も噴出した。
タイムラインには、真剣な法的議論から「アニメーターが職を失う未来」への悲観、果ては「同人活動そのものが違法化されるのでは」という極端な憶測まで飛び交い、ある種のパニックにも似た盛り上がりを見せた。
AIが人間の創作に食い込むたび、必ずこうした「著作権侵害か否か」という論点が前面に出る。だが、私はそこに違和感を覚えている。
なぜなら私は――もっと根本的に、著作権という制度そのものが未来には消えていくのではないかと考えているからだ。
著作権が生まれた本当の理由
著作権は、単に「盗まれないための権利」ではない。法律上の目的はもっと前向きで、「創作を保護することで文化の発展に寄与する」ことにある。
背景には、「作品づくりには大きなコストがかかる」という事実があった。
-
漫画なら、作画・背景・印刷に時間もお金もかかる。
-
アニメなら、何百人ものスタッフと莫大な資金を投じなければ一本すら完成しない。
だからこそ、「一定期間は独占的に利用できる権利」を保証することで投資を回収し、次の作品へつなげる必要があった。
つまり、著作権は「高い制作コストを回収するための仕組み」でもあったのだ。
AIが崩す「高コスト=保護の必然性」
しかし生成AIは、この前提を根本から揺るがす。
背景や小物は一瞬で出力でき、キャラクターのポーズや表情も自動生成。彩色や仕上げまでAIが肩代わりする。Sora2が示したように、この能力は今も継続的に向上し続けている。
つまり、一本の漫画やアニメを作るのに必要な時間とお金は、これから劇的に下がっていく未来が予想される。
作品があふれると値段はどうなる?
制作コストが下がれば、作れる量は当然増える。市場にはこれまで以上に膨大な作品が供給される。
しかし、読者や視聴者が作品に使える時間は増えない。
供給が急増する一方で需要はほぼ横ばい――この状況で起きるのはシンプルだ。
作品の価格が下がる。
これは経済の基本法則だ。ものが余れば値段は落ちる。作品も例外ではない。
作り手の利益をシンプルな式で表すとこうなる。
期待利益 = (作品の価格 × 売れる数) − (制作コスト + 著作権を守るコスト)
ここで「著作権を守るコスト」という見慣れない概念を用いた。これは、違法コピーを探して削除申立を行う手間や弁護士費用、監視ツールやDRMの導入料といった金銭的負担に加え、それに割かれる時間や機会損失まで含む。つまり作品を守るにもコストがある、ということだ。
そして重要なのは、単価と販売数が同時に下がるため、1作品あたりの売上はどんどん小さくなるのに、守るコストは一定以上必ず発生するという点である。すると、「多少売上が減っても、そもそも守るためのコストをゼロにした方が利益が大きい」という逆転が起きる。
このような状況では、著作権は制度として存在していても、作り手自身がその行使をやめてしまう。コスト倒れになるからだ。つまり、著作権は「紙の上には残っているが、実際には使われない」状態――形骸化していく。制度が機能しなくなれば、やがて廃止や大幅縮小の方向へと進むのは自然な流れだろう。
著作権が文化を邪魔する瞬間
著作権には昔から、文化を妨げる側面があった。
-
二次創作の萎縮
ファン活動は作品の裾野を広げてきたが、著作権を厳格に適用すれば簡単に制限される。 -
パロディやリミックスの制約
名シーンを切り抜いたネタ画像やMAD動画は文化を豊かにするが、著作権の壁に阻まれる。 -
実況や配信の制限
SNSでの実況や感想は拡散の燃料だが、「配信禁止」によってそのチャンス自体が奪われる。 -
換骨奪胎的な発展の阻害
過去の作品を下敷きにし、骨格を借りつつ新たな中身を与える――そうした伝統的な創作の方法も、著作権によって制限される。その結果、本来なら発展し得た表現やジャンルが芽を出す前に潰されてしまう。 -
AI学習の制限
多様な作例を取り込むことでAIは表現力を増す。だが「著作権侵害だから使うな」となれば、新しい表現の芽を摘むことになる。
これらはもともと存在していたデメリットだが、「高コスト回収」という制度の意義があったからこそ社会は許容してきた。
しかし、AIによってその意義が失われると、デメリットだけが目立つ制度へと変質してしまう。
独占から薄利多売、そして“推し”へ
実のところ「一本を独占して高値で売る」モデルは、AIの発展を待たずとも、すでに普遍のものとはいえなくなってきている。
-
漫画アプリでの短話連載
- 見放題・読み放題などのサブスクリプションモデルやフリーミアムモデル
-
制作過程や限定コンテンツへの課金
-
ファンが作品ではなく作家本人やキャラクターそのものを支援する仕組み
-
無限にコピーできるデジタルではなく、物理的に限定できるもの(グッズ、サイン本、限定版)に価値が移る
こうした動きは以前から存在していたが、AIの登場によって主流のビジネスモデルへと押し上げられていく未来が見えてくる。
なぜなら、AIによって「一本を長く守る」必然性がますますなくなるからだ。
供給が爆発する世界では、著作権ではなく、速度・関係性・コミュニティが価値の源泉になる。
これから主流になる三つの稼ぎ方
未来の創作活動は、次の三つを組み合わせたモデルに収斂していくだろう。
-
薄利多売モデル
AIによる低コスト生産を前提に、短期的に大量の作品を供給して小さな利益を積み重ねる。 -
関係性モデル
作家やキャラクターを「推す」気持ちに支えられ、作品そのものよりもファンとの関係から収益が生まれる。 -
限定性モデル
無限複製できるデジタルではなく、物理的なサイン本や限定グッズ、イベント体験のような「数に限りがあるもの」に価値が集中する。
要するに、未来の主流は速さ・つながり・限定性の三本柱であり、作品の独占権ではなく、それを取り巻くエコシステム全体で回すモデルになるだろう。
想定される反論と回答
「大作はどう回収するのか?」
→ 答えは前倒し回収と分散回収。企画段階から支援を募り、制作過程そのものを商品化。完成後はイベントや限定物販で厚みを作る。
「ただ乗りは不公平では?」
→ 未来の市場では、違反を追いかけるコストの方が高くつく。むしろ拡散を宣伝と見なし、スピードとブランド力で優位に立つ方が合理的になる。
「最低限の保護は必要では?」
→ 人格権や出所表示、虚偽表示の禁止は必要だろう。しかしそれは著作権ではなく、他の法制度で十分に担保できる。
結論:著作権は形骸化し、やがて消える
生成AIの発展は、創作コストを下げ、供給を増やし、価格を下げる。
市場は薄利多売と関係性モデルに移行し、著作権を守る意味は失われる。
そして制度のメリットが小さくなれば、もともとあったデメリットばかりが目立つようになる。
そのとき著作権は「文化を発展させる制度」から「文化を妨げる制度」へと変質し、やがては廃止へと向かうはずだ。
変化の先を見通せない人々は、まだしばらくの間「侵害か合法か」といった線引きをめぐって声を荒げ続けるだろう。
しかし現実は、その頭越しに着実に進んでいく。著作権は現場で使われなくなり、静かに形骸化していく。
気づいたときには、守るかどうかでもめていた“その権利”自体が、すでに不要になっているだろう。
※この記事はid:sangpingの指示のもと、ChatGPTによって生成されました

歩けないエスカレーターのアイデア(ブレストごっこをしよう!)
もちろん、諸々の制約条件をすべて潰していくのは大仕事だし、実際やるとなると素人では想像もつかないようなハードルが色々あるのだろうことは分かるけど、なんとなく感覚としては絶対どうにもならないレベルの話とも思えないんですよね、この件。
なんで素人の自分がそう感じるのかなぁと考えてみたんですが、ひとつには「これまで真剣に検討したことがある人が少なそうだから」っていうのがありそうだと思いました。
チェスタトンのフェンスって話が出てたけど、フェンスが建てられた理由(歩けないエスカレーターが作られなかった理由)は単純に作ろうとした人がいなかったから、という可能性も多分にあるのでは、と。
だって、この件、何をどう対策するにしてもコストアップになる可能性が高そうですからね。
なんかラテラル・シンキング的なアイデアで一発逆転の可能性もない訳じゃないでしょうけど、そもそも今までと何かやり方を変えるっていうこと自体がコストですしね。
現状上手く機能しているものの改良って、よほど社会的要請が高まらないと誰も手を付けようとはしないですよね。
逆に言えば、仮に今が多少のコストアップを許容できるだけの社会的要請が高まった時代だと考えるなら、実現の余地は普通にありそうだと考えるのは別段おかしくない発想だと思うわけです。
そんな感じで「まあ、これまでほとんど真剣に検討されてこなかったことだろうし、世の中の空気も変わってきているので、今ならワンチャン行けそうな気もするんですが、プロの人はなんとか考えてもらえませんかねぇ」という気持ちでいるところに「誰もやってないことは出来ないことなんじゃね? 違うというならまずはお前が具体案出してどうぞ」と言われると鼻白まざるを得ない訳ですが、でもまあ、ブレスト的に思いついたアイデアを精査せず言いっ放しにする作業って普通に楽しいですから、そんなスタンスで考えてみましょうか。
99%ダメ出しされるの前提でも、数打って行けば、そこから突破口が生まれたりするもんですよね。ブレストの原則です。
とりあえず、私がパッと思いついたのは、数段置きに手すりからバーを伸ばす方法。

安全性や強度など諸々のことを考えると、長さはそんなに長くなくていいんじゃないですかね。
15cm~20cmくらいでいいんじゃないでしょうか。
これだと完全に「歩けない」という訳ではありませんが、要は大多数の人間が歩かなくなれば、あとはその人間たちが「歩けないエスカレーター」を実現するためのパーツ(障害物)として利用できる訳ですので、必要なのは厳密には「絶対に歩けないエスカレーター」というよりは「いかにも歩きたくなくなるようなエスカレーター」だと思います。
あと、ぶつかったり挟まれたりすると危険なので、なるべく柔らかいもの(スポンジみたいなもの?)がいいと思いますが、そうなると耐久性はどうでしょうね? その辺、知識がないので分かりませんが、ブレスト形式なので言いっ放し上等ということで。
ただ、これだと乗るときと降りるときに邪魔になりそうですね。
あと、下側逆向きに戻ってくるときに土台にぶつかってぶっ壊れます。
土台を貫通させると、今度は足払いされることになるので、いずれにしてもそのままでは実現はできそうもない。
やっぱりバーは人間昇降中と下降中以外の「人が静止して乗っている区間」だけに存在する形にしないとダメっぽいですね。

それ以外の区間は遮断機のように開閉させたり折りたたんだりするか、あるいはそもそもバーを紙風船みたいな素材で作って萎ませるか、マジックハンドみたいな蛇腹構造にしてビヨーンとまっすぐ横方向に伸び縮みさせるか、うーん、どんな方法がいいでしょう?

↑蛇腹式のマジックハンド
というか、いっそ手すりと一体化させないで、別口でバー専用の回転体を設置するのがベターかもしれませんね。
これなら既存のエスカレーターに後付も可能そうですし。

とまあ、あれこれ適当に言ってきましたが、これ以上細かいことは素人が考えても、どうせムラだらけ穴だらけになるので、ここらでストップしておきましょう。
そもそもこれがベストソリューションなんて胸を張る気はないですし、ブレストの一案に過ぎませんからね。
でもまあ、こうやってみんなでアイデアを出し合ったら、なんかできそうなレベルの話に思えるんですけどそれでもやっぱりダメですかね?
まあ、大喜利含めて、こうやってみんなで色々無責任にアイデアを考えるのは楽しいよね、ってところで、今日はおしまいにさせていただきます。
それでは。
追記
ちなみに私の本命は「歩いても安全なエスカレーターを作れ」派です。
具体案? 知らん。頑張れ。以上!
はてな匿名ダイアリーのトラバ記事を非表示にするChrome拡張機能を作りました

機能
はてな匿名ダイアリー(通称、増田)の記事一覧に表示されるエントリのうち、どっか別のエントリにトラバ(トラックバック/言及)している記事(「言及先エントリを開く」ボタンが表示されているエントリ)をまとめて非表示にします。それだけ。
インストール
こちらから
言い訳
当方、プログラミングは全くの専門外(いにしえのジオシティーズとかで培ったHTML/CSSの知識に毛が生えた程度のもの)ですので不具合があっても悪しからず。
はてなの仕様が変わると使えなくなるかもしれません。
誰かに怒られたらコッソリ消すかもしれません。
おすすめ
いわゆる増田ブクマカの皆さんとか、よろしければ。
よもやま
トラバにも面白いエントリはあるけど、自分がブクマする記事を探すときは親エントリばっか見てるなーと思って作りました。
トラバ職人の皆さんにおかれましては、ごめんなさい。
転売ヤー対策には公式転売ヤーを雇え
[B! 外食] 飲食店の予約の権利をオークション形式で売り出すというすさまじいサービスが開始「さすがにドン引き」「何がダメなの?」
転売の話題が出るたびにブコメしてきたことなのですが、改めて100文字では書ききれない部分について補足を。
まず最初に言っておかなければいけないのは、私は世の転売行為の大部分を特段悪い(規制すべき)行為だとは考えていないということです。
その理由は単純で、転売行為のほとんどが市場原理で駆逐することのできない外部不経済を用いたハックなどではなく、普通に市場原理で対抗可能な経済活動の一様式にすぎないと考えているからです*1。
転売が問題となるのは主に買い占めによる市場価格の異常な高騰や品薄ですが、これは正規流通の側が適切な対応を行えば、直接に転売行為を規制せずとも問題にならない水準までその活動を抑止することが可能であると私は考えます。
その方法が、再三ブコメ等で書いてきた「公式によるプレミアム価格での販売」です。
この方法、理屈は非常に単純です。つまり、公式(主にメーカーを想定)自身が一部の商品を、転売ヤーの販売している価格と同等の高価格*2で直販することで「同じ値段なら素性の分からない転売品よりも公式のお墨付きのある正規品を買おう」という発想に購入者を誘導し、転売活動に旨味が無い状態を作り出そうというアイデアです。
公式側には転売ヤーに流れていた上乗せ分のプレミアム価格が入ってくるので損はありませんし、社会全体としても不必要な規制を設けずとも問題解決を図ることが叶います(リバタリアン的にはここ大事)。
もちろん、大部分の商品は従来どおり一般流通に正規の価格で流すことになるので、これで市価が高騰してしまうことはありません。
あくまでも新製品発売当初などの品薄になりやすい一時期に限って、転売ヤーに流れるはずだった顧客を公式で根こそぎキャッチアップして、転売ヤーのインセンティブを無くすのが目的です。
具体的な方法としては、公式自身がオークションを実施したり、プレミアム価格での直販サイトを作ったりというパターンも考えられますが、これらは公式が自社の中にそれらのオペレーションに対応するための新たなシステムを構築しなければならない分、導入コストも必要となるため多少ハードルが高いものと考えられます(特に個別販売を想定していない製造専業のメーカーなどの場合は顕著)。
むしろ、私がオススメしたいのは、それらのオペレーションも含めてすべてのプレミアム品流通の活動を、既存の転売ヤーに一任してしまう方法です。
メーカーは、転売(オークションサイトの利用など)のノウハウを豊富に持っている「プロの転売ヤー()」と契約し、そこにある程度の数量の商品をプレミアム品として出荷します。出荷価格は卸価格ほど安い必要はなく、希望小売価格よりわずかに安い程度でも十分です。
あとはメーカーのホームページなりで公式転売ヤーのリストを公表しておけば、勝手に公式転売ヤーたちがいい感じの(闇転売ヤーよりちょっとだけお安めの)値段を付けて公式プレミアム品を売りさばいてくれ、次第に闇転売ヤーは駆逐されていくでしょう。
(更に発展的なアイデアとして、こうした「公式転売」を生業とする「プロ転売企業」を設立し、転売側から積極的に品薄を起こしそうなメーカー相手に上記モデルを営業していくというパターンも考えられます。誰かチャレンジしてみませんか?)
以上、なかなか良いアイデアだと思うのですが、どうでしょうか。
一方、現実には今のところ、こうした手法を取り入れているメーカーはほぼ存在しません。
理由はいくつか推察できるのですが、まず1つ考えられるのは、既存流通の顔を立てるため直販に踏み込みづらいというメーカー特有の事情が存在しているという可能性でしょう。しかし、今回のアイデアはあくまでも希望小売価格よりも高い値段のプレミアム品を少量販売するというものであるため、それが一般流通の正規品と競合することは考えづらいはずです。慣習として流通側への配慮で直販を控えるということはあるのかも知れませんが、そこに合理的な意味はあまりないように思えます。
また、第2の理由として、メーカー自身が「品薄戦略」を採るため意図的に転売ヤーを放置しているという可能性です。これは、上記プランによって公式が主体的に転売ヤー対策を行うことが可能であるというアイデアを世間一般の人々が持っておらず、品薄への批判が公式よりも転売ヤーへと集中する傾向が強かったため、公式がそこに乗っかった結果であるともいえるでしょう。つまり、多くの消費者が上記プランの有用性を評価し、メーカーの不作為を不誠実なものだと糾弾するような世論が形成された場合、この理由は解消に向かう可能性があると考えられます。
その他、意図的に品薄戦略を採らないまでも積極的に品薄対策を行うほどのインセンティブが公式側に存在しないといった可能性や、プレミアム価格での販売に「謎の」忌避感を持つ層への配慮といった可能性も考えられますが、いずれにしても世論の大部分が上記プランを支持するようになれば、公式が動かない理由は激減するでしょう。
要するに我々消費者が、プレミアム販売をして欲しいと強く要望していないことが公式の動かない一番の理由であり、これが変われば、転売ヤーに悩まされる現状も大きく変わっていくのではないかと私は考えるのです。
表現の自由性を保つために制約されるべき表現
まえがき
はてなブックマーク Advent Calendar というには、あまり一年の総括っぽくない&真面目腐った内容で恐縮ですが、この一年何度かブコメで書きたいと言ってきたテーマを書いてみました。
初めは読みやすく「です・ます」で……と思っていたのですが、なんかそれでは書き終わりそうもなかったので、とにかく書きやすさ優先でタイプしていったら、めちゃくちゃ固くて読みづらい文章になってしまいました。
内容もどうしても二重否定などが多く非常にややこしい話なので、自分でも読むのがしんどいくらいなのですが、この年の瀬に悪文を読み解いて頭の体操をしてみたいという奇特な方がいらっしゃいましたら、是非ともお付き合いいただければ幸甚です。(どうしても無理という人は「あとがき」だけでも読んでくれると嬉しいな)
それでは、しばしお目汚し、失礼いたします。
※この記事ははてなブックマーク Advent Calendar 2021 - Adventarの12月23日の記事です。
目次
本文
2021年も相変わらず表現の自由に関する話題が目白押しだった。
近年特に顕著なのは、公的機関による直接的な規制よりも、私人間で他者の表現の在り方について批判を行い「その表現には問題があるので、取り下げるべきである/修正すべきである/表現の場を限定すべき(ゾーンニングすべき)である」といった論旨を展開して自警団のように振る舞う論客の台頭であるように感じる。
専門用語としての「表現の自由」が、原則として国家と個人の関係の中で国家に対する縛りとして規定されたものと解されるのは既知の通りであるが、そもそも「自由な表現の担保された社会」の維持が社会的強者の専横を抑止し社会的弱者の権利を保護するための安全弁になるという民主主義の基本原則を鑑みれば、たとえ私人間であっても「社会において自由な表現の発露が担保されている度合い(以下、便宜上「表現の自由性」と呼称する)」を安易に損なうが如き振る舞いは、公共の福祉によって制約を受けて然るべきであると私は考える。
一方、こうした表現への抑圧を企図した言説もまた、それ自体が「表現」の一部であることは確かであることから、特に論理的な補足なくこれを制約すべきと主張した場合、その主張もまた「表現を抑圧する表現」として制約されるべきであるという、一種のトートロジー的な自家撞着が発生する。
もっともこれは、あくまでも言葉遊びの域を出ない表層上の反論に過ぎず、要は例外事項として論理を補足すれば、それで矛盾は解消する。
すなわち、
という二段階の論理構成で原則を規定することは何ら矛盾をきたすものではないのだから、少なくとも理屈の上ではこうした主張は問題なく成立すると言い切れる。
ただ、このようにして特定の表現(表現の自由性を損なうような表現の抑止を促すような表現)を例外として扱うべきと主張する以上は、同時にそのような表現が他の表現と比較したとき、例外を設けるに値する何らかの特殊性を有していることを示す必要が生じるだろう。
この点、(これもまたトートロジー的な論法となるが)「表現の自由性を自ら毀損する表現を表現の自由性によって保護する行為は、その行為自体が表現の自由性を毀損する行為として矛盾する」という論理が、その特殊性を示す有力な論拠となると私は考える。
そもそも、上述の制約は表現の自由性を高い水準に保持することを目的としたものであり、これと真逆の結果をもたらす表現を例外的に保護の枠外とすることは、その本旨からしても何ら矛盾を生まないどころか、むしろ整合性の上で不可欠な要素であるとすら考えられるだろう。
さて、以上の通り、私は表現の自由性が社会的弱者を保護する上での安全弁として極めて重要な要素であるとの視点から、表現の自由性を損なうような表現はこれを公共の福祉によって制約すべき(これ自体が表現の自由性を部分的に損なう言説ではあるが、例外として制約の対象外とする)だと考えたが、この理念の実現にあたっては加えて考慮すべき事項が存在する。
それは、そもそも公共の福祉により制約を受けるべき性質の表現(他者の権利を著しく侵害する表現等)について、これを抑止するような表現は制約を受けるべきか、という疑問についてである。
結論から言えば、これらの表現については(外形上は表現の自由性を損なう表現ではあるものの)公共の福祉による制約の例外として、特に許容されるべきであると考えられる。
これは、そもそも公共の福祉により制約を受けるべき性質の表現というのは、それによって侵害される他者の権利との比較によって制約を受けるのが妥当だと解されるものを指すのである以上、これを許容するのは社会に対してデメリットの方が大きいということであり、必然的にそうした表現を抑止するような表現についてはメリットの方が大きくなる可能性が高いことが予想されるからである。
以上、これまで考察を行ってきた表現の自由性を損なう表現に対する制約の必要性について、結論をまとめると以下の通りとなる。
- 他者の表現を制約するような表現は公共の福祉により制約を受けるべきである
- 表現の自由性を損なうような表現に対して、その抑止を促すような表現については、1の限りではないとする
- 公共の福祉により制約を受けるべき性質の表現に対して、その抑止を促すような表現については、1の限りではないとする
また同時に、表現に依らずその他様々な実行手段によって他者の表現を制約するような行為についても、同様に公共の福祉による制約の対象とすべきであろう。
一例として挙げるならば、表現の差し止め、修正、ゾーンニング要求を目的とした署名や抗議、商品の不買運動などがそれである。
では、こうした理念を具体的に人々へと浸透させ、表現の自由性を高く保持し続けられる社会を構築するためにはどのような方策が考えられるだろうか。
まず第一に考えれるのは、人々への意識への働きかけである。
すなわち、上述の理念について広く共感を図り、2種の例外のケースを除き原則として他者のあらゆる表現についてこれを制約・抑圧するような行為・言動・表現は不当であり、避けるべき行いであるというコンセンサスを構築していくこと。
こうした意識がある種の社会常識として広く人々の共通認識となったならば、表現の自由性は今よりも高い水準で安定的に保持されるようになるだろう。
第二の方策として考えれるのは、法的な規制の導入である。
これはより強力な手段であり、当然のことながらその危険性も第一の手段に比べればはるかに大きい。
表現の自由性を保持する目的であるとはいえ、その手段として部分的とはいえ表現の自由性を狭めるような規制を導入することへ抵抗感は私個人としても少なからず存在する。
しかし考察の中で述べたように、他者の表現を制約するような表現を制約することは、表現の自由性を保持するという目的に照らして逆行ではなく、むしろ前進であると私は考える。
具体的な法制度の在り方について、慎重な議論が必要なことは無論であるが、ひとつの可能性として検討すべき考え方ではないかと思われる。
FAQ
その他、本文で触れられなかった主要論点についてFAQ形式で補足
Q:なぜ表現の自由性が重要なのか
A:表現行為の自由性を保持することは、民主主義社会の基盤かつ不可欠な前提であるため。
表現の自由(言論の自由)は弱者が強者による不当な抑圧に対抗するための最終手段であり、これを堅持することは民主的な手続きによって弱者の権利を保護するために極めて重要な事柄である。
※この点については、あえて私が語るまでもなく多くの法律家、思想家、論客によって説明が為されている考え方である一方、人によってその重要性についての捉え方に大きな温度差のある部分でもあると感じている。機会があれば改めて参考文献などを紐解きながら文章にしてみたい。
Q:他者の表現を制約するような働きかけ(制約を受けるべきもの)にはどのようなものがあるか
A:一例として以下の通り。
- 公表差し止めの要求
- ゾーンニングの要求
- 表現修正の要求
- 表現の差し止め、ゾーンニング、修正を目的とした圧力
- スポンサーへの抗議
- スポンサー商品の不買活動
Q:「見たくないもの(不快な表現)を見ない権利」は認められないのか
A:人権の一部として当然に認められるべきである。
しかし、一方でこうした権利の行使によって表現の自由性が損なわれることによる社会的なデメリットは甚大であることから、極めて特殊な事情が存在する場合を除いて、こうした権利に基づく表現への制約(ゾーンニングや表現の差し止め要求)は、公共の福祉により制約を受けるべきである。
これは「見たくないものを見ない権利」が専ら広く一般の人々の一時的な感情を保護するものであり、相対的に見て重篤な被害を継続的に被る危険性は低いと考えられるのに対して、表現の自由性が損なわれた場合、最初に権利が脅かされる可能性が高いのは社会的弱者であり、またその危害の程度もより深刻となり得ることが予想されることからも支持される。
Q:公共の福祉により制約の必要性が認められる表現とはどのような表現か
A:特定の個人に対して重篤な被害を与える表現である。
表現の制約の必要性については、専らその表現が直接個人に与える危害の大きさによって判断を行うべきであり、その表現が危害を加える個人の数(影響範囲)によって判断を行うべきではない。
これは、表現による危害は原則としてそれに対抗する表現によって回復を図ることを第一とすべきであり、そうした原則を設けなれば、安易かつ恣意的に表現への制約が加速していきかねないと考えられるからである。
例えば誹謗中傷や洗脳(マインドコントロール)などのように対象となった個人が直接的に深刻かつ回復困難な危害を被るケースについては相対的に表現への制約の必要性が高いと考えられる一方、その表現に接した人が単に不快感を覚えるだけのケースや、その表現に触れて感化された人々が増加することによって間接的に危害のリスクが高まるに留まるようなケースについては、いずれもそれに対抗する表現(元の表現を差し止める表現ではなく、元の表現の誤りを指摘したり、元の表現とは異なる価値観を提示する表現)を用いることによって危害を回避あるいは回復できる可能性が存在することから、相対的に制約の必要性は低いと考えられる。
なお、こうした原則に基づいて判断を行うならば、例えば個人を限定せず特定の属性の人々に対して攻撃や侮蔑のメッセージを発するいわゆる「ヘイトスピーチ」などは、その定義からいって必ずしもすべてが個人に対する直接的な危害の程度や回復困難性が高いケースばかりであるとは断定できないことから、制約の必要性については個別の事案に応じたより慎重な判断が望まれるものと考えられる。
あとがき
いかがだったでしょうか(←言ってみたかった)。
かなり過激なことを言っているのではないかという自覚はあるのですが、昨今の表現の自由性に対する無思慮(としか思えない)な言動やムーブメントの数々には、本当に危機感を覚えており、ここらでそれらと明確に対抗する動きを見せなければヤバいのではないかという思いが募る今日このごろゆえに、このような話を年末に書き起こすに至った次第です。
なお、本文やFAQに書き漏らしたことですが、今回問題として取り上げているのは「他者の表現」を抑圧する表現についてであり、発信者の一員が自分たちの表現について内輪でストップを掛けるケースは応用問題としてまた一考が必要だと考えています。
例えば、〇〇市の市議会がマスコットとして採用したキャラクターについて、市民以外の人間が差し止め等を要求するのは他者の表現の抑圧である一方、〇〇市の市民が発信者側の立場として差し止めや修正を主張するのはやや事情が異なるという考え方です。(もっともその場合でも、あくまでも発信者集団の一部でしかない個人が、どこまで全体の意思決定に異を唱えることができるのか、ストップの要望を発信する手段はどのようなやり方が望ましいか、など考えるべき事項は多くありますが……)
思えば数年前、ポリティカル・コレクトネスという言葉が日本で知られるようになった頃から「悪い思想」「誤った思想」を排除しようという主張が目に見えて勢力を増してきているように思われます(主観なので勘違いかもしれませんが……)。
人を傷つける表現、特定の属性の人を貶める表現、人を傷つけたり特定の属性の人を貶める社会へと思想を誘導するような表現。
こうした表現が消えることで、より良い社会が実現する。
それは、ある一面においては事実でしょう。
表現によって傷つけられる人がいなくなり、誰も弱者を傷つけないような世の中へと変貌すれば、今より社会は良くなるはずです。
しかし、そうした理想を信奉する人は、ひとつ決定的な事実を見落としています。
それは「悪い思想」「誤った思想」を排除しようとするならば、必ず誰かがその思想を「悪い・誤ったもの」だと判断しなくてはならないということです。
「悪い・誤った思想」を「悪い・誤った思想」だと判断するのは誰でしょう?
それはあるいは国であり、裁判所であり、「こういう表現は本当にまずいよね、儲からないよね」というふんわりとした社会的合意かもしれません。
しかし、いずれにしても、これらの背景には共通して、社会の多数派が構成する世論、マジョリティの論理が存在します。
「皆が正しいと信じる思想、皆が正しいと思う理念、それを追求するのが民主主義ではないか」と思ったならば、それは誤りです。
民主主義は少数の意見をきちんと汲み上げ俎上に乗せる。多数決は最終的な意思決定の際に用いられるひとつの手段に過ぎません。
そして少数の意見を汲み上げるために最後まで堅持しなければならない究極の人権が、思想の自由であり表現の自由なのです。
どんなに不当な差別に晒されていても、声をあげることさえできれば救済の可能性は残される。
逆に言えば、救いを求める声が閉ざされれば、もはや弱者が正当な手段で自らの権利を回復する道も閉ざされます。
表現の自由性が最大限に尊重されなければならないのは、まさにこのためです。
個人に深刻な危害が生じる場合を除いて、あらゆる表現に制約を設けるべきではないというのは、そうした制約の判断が常にマジョリティ(あるいは強者)の意見によって為されるものである以上、そこには弱者がSOSを発信する最後の手段すら奪いかねない危険性がつきまとうからに他なりません。
確かに世の中には見るに堪えない表現や、明らかに世の中にマイナスの影響を与えるであろう表現が蔓延っています。
しかし、こうした大多数の人間が眉をしかめて目をそむけるような表現こそ、真っ先に制約を受けやすく蟻の一穴となって表現の自由性を損なうキッカケとなってきたことは歴史を見ても明らかである以上、私たちは弱者の権利を保護するために、なによりもこうした「悪徳」とすら思える表現を、まず第一に保護していかなければならないのです。
本来、世の中を良くしたいという意欲に燃え、特に人権に篤い気持ちを持っているはずの人々が、よりにもよって、もっとも弱き立場の人々の最後の砦となるべき表現の自由性を安易に毀損しようとしている現状は、まさに悲劇と言っても過言ではありません。
どうか、弱者の気持ちに寄り添うことのできる人権意識の高い人々が、今少し思慮の幅を広げて、より深刻な権利侵害へと追い込まれた弱者の最後の希望を失わせることのないよう願っています。
ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ←「建設的にな~れ」のおまじない
憲法改正で大切なただ一つのこと
憲法改正の議論が加速しそうな政治情勢となってきている。
これについて思うところは色々とあるのだが、特に一点、これだけは言っておきたいと思うことがあるので、それを主張しておきたい。
【改正案の中に素晴らしい条文が99個並んでいたとしても、問題のある条文が1個存在しているならば、その改正を承認してはならない】
それが、私が憲法改正議論の前提として、最も重要だと考えている事柄だ。
改正案の中に問題がある条文が1個でも含まれているならば、躊躇うことなく改正反対に票を投じなければならない。
なぜならば、仮にそれで改正が否決されたとしても、99個の素晴らしい条文までが否定されたことにはならないからだ。
問題のある1個を修正した上で改めて改正案を投票にかければ、99個の条文が死んでしまうようなことは起こらない。
失われるのはスピードだけ。ただ、改正のタイミングが少し遅くなるだけだ。
だから、わずかでも疑念の残る条文が改正案の中に含まれるならば、そのときは躊躇することなく否決の側に天秤を傾けるのが賢明な判断になる。
これは普段の意思決定で正解とされるスタンスとは異なる判断基準であり、そこに違和感を覚える人もいるかも知れない。
世の中で通常行われる意思決定の多くは、仮に間違った決定を下してもそれを後から修正することが可能であり、その場合にはスピードを重視して「99のプラスと1のマイナスを相殺して98のプラスを目指す」という判断も下し得るケースが確かにある。
しかし、憲法改正はそうではない。
なぜなら憲法改正は不可逆的変化をもたらす可能性があるからだ。
一度の決定が不可逆的な変化をもたらす場合、そこでは何にも増して慎重さが重視される。
たった一つのマイナスが紛れ込んだとき、それを取り除くために想像を絶するような代償を求められる可能性もあるからだ。
だから、そのような毒が紛れ込まないよう極めて慎重に、わずかのミスも見逃さない態度が重要となってくるのだ。
最も恐れるべきは、99個の素晴らしい条文に目眩ましをされるような格好で、1個の危険な条文がろくに注目されることもなく承認されてしまうことである。
更に言うならば、危うい条文を可決させようと目論む者は、意図的に99個を迷彩として使用することも考えられる。
こうしたリスクを回避するために重要になってくるのは、実は「改正案に反対する側」のスタンスだ。
改正案に反対する者は、素晴らしい条文と問題のある条文のメリットとデメリットを足し引きして総合点で論理を組み立ててはいけない。
また、改正案が否決されたとき、鬼の首を取ったように「問題のある条文が国民から否定された」と勝ち誇ってはいけない。
否決されたのはあくまでも改正案全体であり、個別の条文ではないからだ。
仮に改正案が否決されたとしても、それが国民による個別条文の否定であると主張するのは避けねばならない。
「改正の否決=100個の個別条文の否決」というロジックで反対活動を行わないこと。
改正の否決は、あくまでも「100個の条文パッケージの否決」であって、その100個の中には素晴らしい条文が含まれていた可能性を否定してはいけない。
「100個のうち99個は素晴らしい条文であった可能性」を留保し、一度は否決された改正案がわずかに部分修正されて再度投票にかけられることを許容しなければならない。
修正による再審議を許容すること。
それがあるからこそ、我々はたった1個の問題点が含まれることを理由に、堂々と改正案を丸ごと否決する正当性が担保できるからだ。