表現の自由性を保つために制約されるべき表現

まえがき

はてなブックマーク Advent Calendar というには、あまり一年の総括っぽくない&真面目腐った内容で恐縮ですが、この一年何度かブコメで書きたいと言ってきたテーマを書いてみました。

初めは読みやすく「です・ます」で……と思っていたのですが、なんかそれでは書き終わりそうもなかったので、とにかく書きやすさ優先でタイプしていったら、めちゃくちゃ固くて読みづらい文章になってしまいました。

内容もどうしても二重否定などが多く非常にややこしい話なので、自分でも読むのがしんどいくらいなのですが、この年の瀬に悪文を読み解いて頭の体操をしてみたいという奇特な方がいらっしゃいましたら、是非ともお付き合いいただければ幸甚です。(どうしても無理という人は「あとがき」だけでも読んでくれると嬉しいな)

それでは、しばしお目汚し、失礼いたします。

 

※この記事ははてなブックマーク Advent Calendar 2021 - Adventarの12月23日の記事です。

 

目次

 

本文

2021年も相変わらず表現の自由に関する話題が目白押しだった。

近年特に顕著なのは、公的機関による直接的な規制よりも、私人間で他者の表現の在り方について批判を行い「その表現には問題があるので、取り下げるべきである/修正すべきである/表現の場を限定すべきゾーンニングすべき)である」といった論旨を展開して自警団のように振る舞う論客の台頭であるように感じる。

専門用語としての「表現の自由」が、原則として国家と個人の関係の中で国家に対する縛りとして規定されたものと解されるのは既知の通りであるが、そもそも「自由な表現の担保された社会」の維持が社会的強者の専横を抑止し社会的弱者の権利を保護するための安全弁になるという民主主義の基本原則を鑑みれば、たとえ私人間であっても「社会において自由な表現の発露が担保されている度合い(以下、便宜上「表現の自由」と呼称する)」を安易に損なうが如き振る舞いは、公共の福祉によって制約を受けて然るべきであると私は考える。

一方、こうした表現への抑圧を企図した言説もまた、それ自体が「表現」の一部であることは確かであることから、特に論理的な補足なくこれを制約すべきと主張した場合、その主張もまた「表現を抑圧する表現」として制約されるべきであるという、一種のトートロジー的な自家撞着が発生する。

もっともこれは、あくまでも言葉遊びの域を出ない表層上の反論に過ぎず、要は例外事項として論理を補足すれば、それで矛盾は解消する。

すなわち、

  1. 表現の自由性を損なうような表現は、公共の福祉により制約を受けるべきである
  2. ただし、表現の自由性を損なうような表現に対して、その抑止を促すような表現については、特にその限りではないとする

という二段階の論理構成で原則を規定することは何ら矛盾をきたすものではないのだから、少なくとも理屈の上ではこうした主張は問題なく成立すると言い切れる。

ただ、このようにして特定の表現(表現の自由性を損なうような表現の抑止を促すような表現)を例外として扱うべきと主張する以上は、同時にそのような表現が他の表現と比較したとき、例外を設けるに値する何らかの特殊性を有していることを示す必要が生じるだろう。

この点、(これもまたトートロジー的な論法となるが)「表現の自由性を自ら毀損する表現を表現の自由性によって保護する行為は、その行為自体が表現の自由性を毀損する行為として矛盾する」という論理が、その特殊性を示す有力な論拠となると私は考える。

そもそも、上述の制約は表現の自由性を高い水準に保持することを目的としたものであり、これと真逆の結果をもたらす表現を例外的に保護の枠外とすることは、その本旨からしても何ら矛盾を生まないどころか、むしろ整合性の上で不可欠な要素であるとすら考えられるだろう。

 

さて、以上の通り、私は表現の自由性が社会的弱者を保護する上での安全弁として極めて重要な要素であるとの視点から、表現の自由性を損なうような表現はこれを公共の福祉によって制約すべき(これ自体が表現の自由性を部分的に損なう言説ではあるが、例外として制約の対象外とする)だと考えたが、この理念の実現にあたっては加えて考慮すべき事項が存在する。

それは、そもそも公共の福祉により制約を受けるべき性質の表現(他者の権利を著しく侵害する表現等)について、これを抑止するような表現は制約を受けるべきか、という疑問についてである。

結論から言えば、これらの表現については(外形上は表現の自由性を損なう表現ではあるものの)公共の福祉による制約の例外として、特に許容されるべきであると考えられる。

これは、そもそも公共の福祉により制約を受けるべき性質の表現というのは、それによって侵害される他者の権利との比較によって制約を受けるのが妥当だと解されるものを指すのである以上、これを許容するのは社会に対してデメリットの方が大きいということであり、必然的にそうした表現を抑止するような表現についてはメリットの方が大きくなる可能性が高いことが予想されるからである。

 

以上、これまで考察を行ってきた表現の自由性を損なう表現に対する制約の必要性について、結論をまとめると以下の通りとなる。

  1. 他者の表現を制約するような表現は公共の福祉により制約を受けるべきである
  2. 表現の自由性を損なうような表現に対して、その抑止を促すような表現については、1の限りではないとする
  3. 公共の福祉により制約を受けるべき性質の表現に対して、その抑止を促すような表現については、1の限りではないとする

また同時に、表現に依らずその他様々な実行手段によって他者の表現を制約するような行為についても、同様に公共の福祉による制約の対象とすべきであろう。

一例として挙げるならば、表現の差し止め、修正、ゾーンニング要求を目的とした署名や抗議、商品の不買運動などがそれである。

 

では、こうした理念を具体的に人々へと浸透させ、表現の自由性を高く保持し続けられる社会を構築するためにはどのような方策が考えられるだろうか。

まず第一に考えれるのは、人々への意識への働きかけである。

すなわち、上述の理念について広く共感を図り、2種の例外のケースを除き原則として他者のあらゆる表現についてこれを制約・抑圧するような行為・言動・表現は不当であり、避けるべき行いであるというコンセンサスを構築していくこと。

こうした意識がある種の社会常識として広く人々の共通認識となったならば、表現の自由性は今よりも高い水準で安定的に保持されるようになるだろう。

第二の方策として考えれるのは、法的な規制の導入である。

これはより強力な手段であり、当然のことながらその危険性も第一の手段に比べればはるかに大きい。

表現の自由性を保持する目的であるとはいえ、その手段として部分的とはいえ表現の自由性を狭めるような規制を導入することへ抵抗感は私個人としても少なからず存在する。

しかし考察の中で述べたように、他者の表現を制約するような表現を制約することは、表現の自由性を保持するという目的に照らして逆行ではなく、むしろ前進であると私は考える。

具体的な法制度の在り方について、慎重な議論が必要なことは無論であるが、ひとつの可能性として検討すべき考え方ではないかと思われる。

 

FAQ

その他、本文で触れられなかった主要論点についてFAQ形式で補足

Q:なぜ表現の自由性が重要なのか

A:表現行為の自由性を保持することは、民主主義社会の基盤かつ不可欠な前提であるため。
 表現の自由言論の自由)は弱者が強者による不当な抑圧に対抗するための最終手段であり、これを堅持することは民主的な手続きによって弱者の権利を保護するために極めて重要な事柄である。

※この点については、あえて私が語るまでもなく多くの法律家、思想家、論客によって説明が為されている考え方である一方、人によってその重要性についての捉え方に大きな温度差のある部分でもあると感じている。機会があれば改めて参考文献などを紐解きながら文章にしてみたい。

 

Q:他者の表現を制約するような働きかけ(制約を受けるべきもの)にはどのようなものがあるか

A:一例として以下の通り。

  • 公表差し止めの要求
  • ゾーンニングの要求
  • 表現修正の要求
  • 表現の差し止め、ゾーンニング、修正を目的とした圧力
    • スポンサーへの抗議
    • スポンサー商品の不買活動

 

Q:「見たくないもの(不快な表現)を見ない権利」は認められないのか
A:人権の一部として当然に認められるべきである。
しかし、一方でこうした権利の行使によって表現の自由性が損なわれることによる社会的なデメリットは甚大であることから、極めて特殊な事情が存在する場合を除いて、こうした権利に基づく表現への制約(ゾーンニングや表現の差し止め要求)は、公共の福祉により制約を受けるべきである。
これは「見たくないものを見ない権利」が専ら広く一般の人々の一時的な感情を保護するものであり、相対的に見て重篤な被害を継続的に被る危険性は低いと考えられるのに対して、表現の自由性が損なわれた場合、最初に権利が脅かされる可能性が高いのは社会的弱者であり、またその危害の程度もより深刻となり得ることが予想されることからも支持される。

 

Q:公共の福祉により制約の必要性が認められる表現とはどのような表現か
A:特定の個人に対して重篤な被害を与える表現である。
表現の制約の必要性については、専らその表現が直接個人に与える危害の大きさによって判断を行うべきであり、その表現が危害を加える個人の数(影響範囲)によって判断を行うべきではない。

これは、表現による危害は原則としてそれに対抗する表現によって回復を図ることを第一とすべきであり、そうした原則を設けなれば、安易かつ恣意的に表現への制約が加速していきかねないと考えられるからである。
例えば誹謗中傷や洗脳(マインドコントロール)などのように対象となった個人が直接的に深刻かつ回復困難な危害を被るケースについては相対的に表現への制約の必要性が高いと考えられる一方、その表現に接した人が単に不快感を覚えるだけのケースや、その表現に触れて感化された人々が増加することによって間接的に危害のリスクが高まるに留まるようなケースについては、いずれもそれに対抗する表現(元の表現を差し止める表現ではなく、元の表現の誤りを指摘したり、元の表現とは異なる価値観を提示する表現)を用いることによって危害を回避あるいは回復できる可能性が存在することから、相対的に制約の必要性は低いと考えられる。
なお、こうした原則に基づいて判断を行うならば、例えば個人を限定せず特定の属性の人々に対して攻撃や侮蔑のメッセージを発するいわゆる「ヘイトスピーチ」などは、その定義からいって必ずしもすべてが個人に対する直接的な危害の程度や回復困難性が高いケースばかりであるとは断定できないことから、制約の必要性については個別の事案に応じたより慎重な判断が望まれるものと考えられる。

参考:ゾーニングは規制か? - ドサンピン茶

 

あとがき

いかがだったでしょうか(←言ってみたかった)。

かなり過激なことを言っているのではないかという自覚はあるのですが、昨今の表現の自由性に対する無思慮(としか思えない)な言動やムーブメントの数々には、本当に危機感を覚えており、ここらでそれらと明確に対抗する動きを見せなければヤバいのではないかという思いが募る今日このごろゆえに、このような話を年末に書き起こすに至った次第です。

なお、本文やFAQに書き漏らしたことですが、今回問題として取り上げているのは「他者の表現」を抑圧する表現についてであり、発信者の一員が自分たちの表現について内輪でストップを掛けるケースは応用問題としてまた一考が必要だと考えています。

例えば、〇〇市の市議会がマスコットとして採用したキャラクターについて、市民以外の人間が差し止め等を要求するのは他者の表現の抑圧である一方、〇〇市の市民が発信者側の立場として差し止めや修正を主張するのはやや事情が異なるという考え方です。(もっともその場合でも、あくまでも発信者集団の一部でしかない個人が、どこまで全体の意思決定に異を唱えることができるのか、ストップの要望を発信する手段はどのようなやり方が望ましいか、など考えるべき事項は多くありますが……)

思えば数年前、ポリティカル・コレクトネスという言葉が日本で知られるようになった頃から「悪い思想」「誤った思想」を排除しようという主張が目に見えて勢力を増してきているように思われます(主観なので勘違いかもしれませんが……)。

人を傷つける表現、特定の属性の人を貶める表現、人を傷つけたり特定の属性の人を貶める社会へと思想を誘導するような表現。

こうした表現が消えることで、より良い社会が実現する。

それは、ある一面においては事実でしょう。

表現によって傷つけられる人がいなくなり、誰も弱者を傷つけないような世の中へと変貌すれば、今より社会は良くなるはずです。

しかし、そうした理想を信奉する人は、ひとつ決定的な事実を見落としています。

それは「悪い思想」「誤った思想」を排除しようとするならば、必ず誰かがその思想を「悪い・誤ったもの」だと判断しなくてはならないということです。

「悪い・誤った思想」を「悪い・誤った思想」だと判断するのは誰でしょう?

それはあるいは国であり、裁判所であり、「こういう表現は本当にまずいよね、儲からないよね」というふんわりとした社会的合意かもしれません。

しかし、いずれにしても、これらの背景には共通して、社会の多数派が構成する世論、マジョリティの論理が存在します。

「皆が正しいと信じる思想、皆が正しいと思う理念、それを追求するのが民主主義ではないか」と思ったならば、それは誤りです。

民主主義は少数の意見をきちんと汲み上げ俎上に乗せる。多数決は最終的な意思決定の際に用いられるひとつの手段に過ぎません。

そして少数の意見を汲み上げるために最後まで堅持しなければならない究極の人権が、思想の自由であり表現の自由なのです。

どんなに不当な差別に晒されていても、声をあげることさえできれば救済の可能性は残される。

逆に言えば、救いを求める声が閉ざされれば、もはや弱者が正当な手段で自らの権利を回復する道も閉ざされます。

表現の自由性が最大限に尊重されなければならないのは、まさにこのためです。

個人に深刻な危害が生じる場合を除いて、あらゆる表現に制約を設けるべきではないというのは、そうした制約の判断が常にマジョリティ(あるいは強者)の意見によって為されるものである以上、そこには弱者がSOSを発信する最後の手段すら奪いかねない危険性がつきまとうからに他なりません。

確かに世の中には見るに堪えない表現や、明らかに世の中にマイナスの影響を与えるであろう表現が蔓延っています。

しかし、こうした大多数の人間が眉をしかめて目をそむけるような表現こそ、真っ先に制約を受けやすく蟻の一穴となって表現の自由性を損なうキッカケとなってきたことは歴史を見ても明らかである以上、私たちは弱者の権利を保護するために、なによりもこうした「悪徳」とすら思える表現を、まず第一に保護していかなければならないのです。

本来、世の中を良くしたいという意欲に燃え、特に人権に篤い気持ちを持っているはずの人々が、よりにもよって、もっとも弱き立場の人々の最後の砦となるべき表現の自由性を安易に毀損しようとしている現状は、まさに悲劇と言っても過言ではありません。

どうか、弱者の気持ちに寄り添うことのできる人権意識の高い人々が、今少し思慮の幅を広げて、より深刻な権利侵害へと追い込まれた弱者の最後の希望を失わせることのないよう願っています。

 

ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ←「建設的にな~れ」のおまじない

 

 

 

 

憲法改正で大切なただ一つのこと

憲法改正の議論が加速しそうな政治情勢となってきている。

これについて思うところは色々とあるのだが、特に一点、これだけは言っておきたいと思うことがあるので、それを主張しておきたい。

 

【改正案の中に素晴らしい条文が99個並んでいたとしても、問題のある条文が1個存在しているならば、その改正を承認してはならない】

 

それが、私が憲法改正議論の前提として、最も重要だと考えている事柄だ。

 

改正案の中に問題がある条文が1個でも含まれているならば、躊躇うことなく改正反対に票を投じなければならない。

なぜならば、仮にそれで改正が否決されたとしても、99個の素晴らしい条文までが否定されたことにはならないからだ。

問題のある1個を修正した上で改めて改正案を投票にかければ、99個の条文が死んでしまうようなことは起こらない。

失われるのはスピードだけ。ただ、改正のタイミングが少し遅くなるだけだ。

だから、わずかでも疑念の残る条文が改正案の中に含まれるならば、そのときは躊躇することなく否決の側に天秤を傾けるのが賢明な判断になる。

 

これは普段の意思決定で正解とされるスタンスとは異なる判断基準であり、そこに違和感を覚える人もいるかも知れない。

世の中で通常行われる意思決定の多くは、仮に間違った決定を下してもそれを後から修正することが可能であり、その場合にはスピードを重視して「99のプラスと1のマイナスを相殺して98のプラスを目指す」という判断も下し得るケースが確かにある。

しかし、憲法改正はそうではない。

なぜなら憲法改正は不可逆的変化をもたらす可能性があるからだ。

一度の決定が不可逆的な変化をもたらす場合、そこでは何にも増して慎重さが重視される。

たった一つのマイナスが紛れ込んだとき、それを取り除くために想像を絶するような代償を求められる可能性もあるからだ。

だから、そのような毒が紛れ込まないよう極めて慎重に、わずかのミスも見逃さない態度が重要となってくるのだ。

 

最も恐れるべきは、99個の素晴らしい条文に目眩ましをされるような格好で、1個の危険な条文がろくに注目されることもなく承認されてしまうことである。

更に言うならば、危うい条文を可決させようと目論む者は、意図的に99個を迷彩として使用することも考えられる。

こうしたリスクを回避するために重要になってくるのは、実は「改正案に反対する側」のスタンスだ。

改正案に反対する者は、素晴らしい条文と問題のある条文のメリットとデメリットを足し引きして総合点で論理を組み立ててはいけない。

また、改正案が否決されたとき、鬼の首を取ったように「問題のある条文が国民から否定された」と勝ち誇ってはいけない

否決されたのはあくまでも改正案全体であり、個別の条文ではないからだ。

仮に改正案が否決されたとしても、それが国民による個別条文の否定であると主張するのは避けねばならない。

「改正の否決=100個の個別条文の否決」というロジックで反対活動を行わないこと。

改正の否決は、あくまでも「100個の条文パッケージの否決」であって、その100個の中には素晴らしい条文が含まれていた可能性を否定してはいけない。

「100個のうち99個は素晴らしい条文であった可能性」を留保し、一度は否決された改正案がわずかに部分修正されて再度投票にかけられることを許容しなければならない。

修正による再審議を許容すること。

それがあるからこそ、我々はたった1個の問題点が含まれることを理由に、堂々と改正案を丸ごと否決する正当性が担保できるからだ。

 

はてブ人気コメント算出アルゴリズム変更と自由で公平な表現の場 / ʕ•̫͡•ʔワンクリック入力用Chrome拡張機能を作った件

 

目次

 

はてブ人気コメント算出アルゴリズム変更と自由で公平な表現の場

ここのところ、立て続けに表現の自由*1に関連して苛立ちを感じる出来事が続出することが続いており、なんだか私とても苛立っております(リアル鬼ごっこ構文)

 具体的には、小林賢太郎氏の解任のキッカケになったアレとか、藤本タツキ氏の読切作品の登場人物に関するアレとかです。*2

 表現の自由に関する個人的見解については以前記事を書いたことがありますので(ゾーニングは規制か? - ドサンピン茶)今回は細かく語りませんが、個人がネットを介して群れとなることで公権力に比するパワーを持ち得る現代においては、こうした市民自身の手から表現の自由を保護するための新たな仕組み(法規制等)作りも真剣に検討する必要があるのではないかと思い始めています。

(この辺りのところは、そのうち考えがまとまったらもう少し詳しく文章にしてみたいと思っています)

 

まあ、そんなこんなで色々とモヤモヤした気分でいたわけですが、極めつけというか(時系列的にはラストという訳ではないのですが継続ダメージ的な意味で)トドメとなったのが、ご存知「はてなブックマーク」の「人気コメント算出アルゴリズム変更」の一件です。

bookmark.hatenastaff.com

 

ご承知の方も多いかとは思いますが、実ははてなブックマークの人気コメントの算出方法は今回の変更以前から単純なスター数順ではなく独自のアルゴリズムに基づくスコアによるものに変更されていました。

人気コメント算出アルゴリズムを変更しました。今後も改善を続けていきます - はてなブックマーク開発ブログ

↑の時点ですでに算出アルゴリズムブラックボックスされていた*3のですが、ブコメなどでは(使用感としてはスター数順とそこまで大きな違いがなかったこともあってか)さほど問題視されることもなく、むしろ好意的な意見の方が大きいように見受けられました。

そもそもはてなブックマーク利用者の間では、スター数順に表示される従来の人気コメントの仕組みに対する評判があまり良くなく、むしろ、そこに改善のメスが入るのであれば期待したいという声の方が大きかったように思われます。

従来のスター数順で表示される人気コメントの問題点としては、人気コメントに入ると多くの人の目に留まるためスターを獲得しやすくなり、後発のコメントが逆転困難となって良質なコメントが埋もれる原因となるという点や、この仕組みを悪用して早い段階で数人(数アカント)が連帯して工作を行えば、比較的容易に人気コメントとして注目を集め続けることが可能な点などが主に挙げられていたように記憶しています。

実際、これらの指摘は確かにもっともであり「スター数順」が「良質なコメント順」を実現する上でベストな算出方法ではないことは事実であると私も思います。

しかし、だからといって私ははてなブックマークが「スター数順」による人気コメントを廃止し、詳細の開示されていないアルゴリズム*4に基づいて人気コメントを表示するという改変が望ましい措置であるとは思いません。

多数の人間が言論を交わすプラットフォームにおいて、場を提供しているプラットフォーマー自身が個々のコメントを任意に取捨し、ある意見は大きく取り上げ、ある意見は小さく隠し、という操作を無制限に実施することを容認すれば、プラットフォーマーは容易にその場で交わされる議論の方向性を捻じ曲げ操作することが可能となってしまいます。

現状、そういった行為は明確に法律等に抵触するものではないと思われますが、そのような思想誘導、あるいは世論操作の余地(抜け穴)を安易に設けることは、本来プラットフォーマーが持つべき倫理に照らして望ましくない行為であると私は考えます。

ブラックボックス化したアルゴリズムに基づいて(恣意的な操作の検証性を無くした状態で)個々のコメントをどれだけの人の目に[触れさせるか/触れさせないか]について運営側が操作する行為。

それを安易に容認することは、健全な表現の場を損なう残念な方向性ではないかと私は感じます。

 

実のところ、この構造は既存の大手SNSでも以前から存在している問題であり*5、それらに比べれば、これまでの「はてなブックマーク」ははるかにシンプルで透明性の高い仕組みによって運営されてきました。

確かに「スター数順」で人気コメントを算出する方式には前述のような問題点が存在していましたが、それらはユーザー側から見ても既知のメカニズムによる現象であり、「先着コメントが有利な構造上、仕方がない」と各自が割り引いて判断することが可能なものでした。

しかし、算出アルゴリズムブラックボックス化され、あるいはアルゴリズム自体は公表したとしても、その計算式が複雑で結果から容易に算出の過程を直感できないものとされてしまえば、ユーザーとしてはそこにプラットフォーマーによる恣意的な操作の可能性を疑わざるを得なくなってしまいます。

いわゆる「表現の自由」は専門用語として限定的なニュアンスを持つため、ここでは「自由な表現の場」あるいは「表現行為の自由性」という言葉を使いたいと思いますが、言論・表現の場において、自らの言葉が何者にも操作されずプレーンな状態で相手へ伝達されるというのは非常に重要なことであり、「はてなブックマーク」においてこの点について逆行する改変がなされたことは、非常に残念で仕方ありません。

 

……と、ここまでアルゴリズム変更による問題点を書き連ねてきましたが、一方で一ユーザーとしては、前述の「スター数順」による人気コメント算出の問題点について、改善が望ましいという声もまた理解できます。

個人的には前述の通り、このような改変は自由で公平な表現の場が損なわれるという意味でとても残念に思うところではありますが、あえて妥協点を見出すとすれば、せめてブラックボックス化したアルゴリズムによるソートを使用している以上は、それが明確にユーザーに伝わるよう名称等を工夫するなどの対策を行って欲しいと思います。

「人気コメント」ではなく「運営者のお勧めコメント」などという風にプラットフォーマー自身の意向が表示に反映されていることを明示すること。

そのような配慮がなされれば、少なくともそれが「支持を集めている(≒人気の)コメント」だと誤認される可能性は減少するでしょう。

また、同時に従来の「スター数順」のソートについても、表示タブのひとつとして「スター数順」などの名称に変更の上で残してもらえれば、「運営者のお勧めコメント」との差を容易に比較することができ、より透明性を高めることが可能となるのではないかと思いますし、こちらも名称変更することで「スター数の多いコメント≠良質なコメント」であることが多少は鮮明になるものと思われます。

あまり期待はしていませんし、ここに書いても偉い人には届かないかとはおもいますが、そうなったらいいなぁくらいの気持ちで一応要望を記しておきます。

 

なお「文字数によって露骨に算出スコアが変動するっぽい」という新アルゴリズムの仕様については、問答無用で百害あってほぼほぼ一利もなしだと思われますので、早急な改善を期待したいところです。*6

 

以上、はてブ人気コメント算出アルゴリズム変更に関する所感でした。

 

ʕ•̫͡•ʔワンクリック入力用Chrome拡張機能を作った件

さて、今回は2本立てということで、ここからは全く違う話題です。

 

最近なぜかブコメ欄で ʕ•̫͡•ʔ の顔文字(?)を見かけることが急増しました。

クマちゃん(?)可愛いですからね~。

どうやら100文字制限のブコメでコメントを書いた後、文字数に余裕がある場合に ʕ•̫͡•ʔ を追加していくのがブームのようです。

クマちゃん(?)可愛いですからね~。

 

私もブームに倣って顔文字を入れてみようかなーと思ったんですが、ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔって意外とどこで切れるのか分かりづらかったり、文字数に合わせるのが面倒だったりで、コピペするのも一苦労なんですよね。

で、どうせなら楽して入力ができると、みんなもっと ʕ•̫͡•ʔ を積極的に使うようになってブコメ欄も和気あいあいとするんじゃないかなーと思ったんで、Chrome拡張機能を作ってみました

chrome.google.com

Chromeにこの拡張機能を追加するとブックマークページのコメント入力欄の下に ʕ•̫͡•ʔ ボタンが追加されるんで、コメントを入力し終わったらこのボタンをポチッとすると、残り文字数に合わせてコメントの末尾に ʕ•̫͡•ʔ が(千切れると悲しいのでキリのいいところまで)追加される仕様です。

f:id:sangping:20210727131303p:plain

当然はてな公式ではないし、プログラミングに関してはズブの素人が作った機能なので、おそらく不具合ありありソースはぐちゃぐちゃの代物ですが、お手軽にブームに乗っかってみたい方は試してみていただけるといいかと思います。

というか、先ほどgoogleさんの方での審査が終わって、ようやくこうしてブログを書いている現在、もはやブームも終わりかけの気配が漂っていたりもするわけですが、まあそこら辺も含めてご愛嬌ということで、何卒よろしくお願いいたします。

ちなみに私はブックマークするときはほとんど「はてな公式拡張機能はてなブックマーク - Chrome ウェブストア)」かスマホアプリを使うので、この自作拡張機能使う予定はございません

あと、どっかから叱られると嫌なので、割と早めにシレッと公開停止する可能性も高いので、そこらへんもあしからず、よろしくお願いいたします。

 

それでは皆さん、どうぞ良いはてブ人生をお過ごしください。かしこ

 

*1:今回の場合、専門用語として限定的なニュアンスのある「表現の自由」よりも、より広く「自由な表現」「表現行為の自由性」と言い表した方がいいかもしれません

*2:表現が不自由な感じの展覧会の件もありましたが、アレはまあまた別枠の話と捉えています

*3:記憶が曖昧なのですが、正確にはそれ以前からスパムの除外など限定的な操作はされていたのではないかと思います

*4:Yahoo! JAPANの「建設的コメント順位付けモデルAPI」についてはアルゴリズムがある程度開示されていますが、人気コメントについては「同APIの要素も加味し」ているだけで、全体としてのアルゴリズムは非開示の状態です

*5:Twitterのタイムラインにしろ、YouTubeのおすすめ動画にしろ、あるいはGoogleの検索結果にしろ、どのようなアルゴリズムに基づき、何回表示されているかはブラックボックスの中です

*6:こちらはどうやら改善の兆しはあるようですが、完全に多数ユーザーの不満が解消される状態には至っていないようです

「下戸はソフトドリンクもいらない」という不都合な真実(?)

いや、あくまで主観的な話なので「真実」かどうかは知らないですけどね。*1

 

comemo.nikkei.com

 

こちらの記事のお話です。

  • 「夜にお酒を飲むことを前提としているお店(居酒屋、ワインバル、ある程度高級なレストランなど)」は、世の中に「お酒を飲まない人」が思いのほか大勢いることを意識していない
  • それらの人も取り込んでいくよう努力することで、飲食店の裾野が広がり、ビジネスにもプラスに働くだろう
  • そのためにノンアルコールドリンクを充実させよう

みたいな論旨でして、まあ、あくまでも酒メインのお店が「プラスαで端金を稼ごう」くらいの発想としては分からんでもないですが、なんというか根本的に考え方がプロダクト・アウトに寄りまくっている印象が強く、顧客(下戸)のニーズを本気で実現する気は無さそうだなと「いち下戸」としては感じるのです。*2

あくまで主観ですが、下戸は飲食店にノンアルコールドリンクなど求めていない。

いや、求めている人もいるかも知れませんが、私は求めていないし、おそらくは求めていない人が多数派ではないかと思う。

だから、前述の記事が「ノンアルコールドリンクを求める下戸」だけを相手にしようという話ならば別にそれで構わないですし、私の話もここで終わりで構わないのですが、“2人に1人はお酒を飲まない”……と潜在マーケットの大きさを強調するのであれば「いやー、どうかな? 多くの下戸はそんなもの望んでいないと思うよ」と反論してみたくなるのです。

私の感覚では、酒飲みは飲食店に「食事と酒」を楽しみに行っていますが、下戸は「食事」を楽しみに行くのです。

決して「食事とソフトドリンク」を楽しみに行くのではない。*3

ところがマーケティングの視点が欠如したまま安易に売上や利益の拡大だけを目論むと、自分たちのビジネスモデルを崩さずにそのまま新規の顧客層を獲得できないかという方向に発想が向かってしまう。

しかし、単純に今のビジネスモデルのまま酒をノンアルコールドリンクに置き換えれば「客単価を維持したままマーケット拡大できる!」といった安直さでは、なかなか期待するような下戸の獲得は難しいのではないでしょうか。

下戸と飲食店に関する話は以前から何度も話題になっているためご承知の方も多いと思いますが、結局のところ、既存の飲食店のビジネスモデルが「食事と酒」両方を注文してもらって初めて適正な客単価となるよう設定されている点に、この話の難しさがある訳です。

「食事(と0円の水)」だけでは客単価が不足する。

だから、酒の代わりにソフトドリンクを……という話になる訳です。

まあ別にノンアルコールドリンクのメニューを充実させたければ、やってみるのは自由です。でも、個人的には「下戸はそんなの求めていないと思うよ」と言ってあげたい。少なくとも自分はソフトドリンクなんて注文しなくて済むならしたくないですからね。

 

じゃあ、飲食店は下戸を取り込むことはできないのか、というとそれはどうなんでしょうね?

前述のビジネスモデルの話でいうと、

 

売上 = 客数 × 客単価

 

という基本の式をもうちょっと分解して、

 

売上 =( 席数 × 回転率 )× ( 食事単価 + 酒単価 )

 

という風に分析したとき、ノンアルコールドリンクを充実させるというアイデアは、3つの変数(席数、食事単価、酒単価)の中身の数字は動かさず、単純にこの「酒単価」と同等の「ノンアルコールドリンク単価」を持つ新規顧客を獲得して回転率を上げようという発想ですが、

 

売上 =( 席数 × 回転率↑ )× ( 食事単価 + 酒orノンアルコールドリンク単価 )

 

これは私の感覚では下戸のニーズを満たしていない。

じゃあ、どうすればいいのかと言われると難しいのですが、なんとなく、まずは現状のモデルを組み立て直さないことには下戸の取り込みは難しいのではないかと思います。

つまり、下戸については酒単価は期待できないものと割り切る。

 

売上 =( 席数 × 回転率 )× ( 食事単価 + 酒単価

 

その上で売上を維持ないしは向上させるためには、当然、その他の変数(席数、回転率、食事単価)のいずれかをUPさせる必要がある。*4

では、どれならUPさせられるか。

と考えると、ある程度答えに近づくのではないでしょうか。

 

よくこの話題になると「酒を飲まないなら、その分食事が高くなってもいいんだな!」と安直なロジックが飛び交いがちですが、まあいい訳はありませんよね。

いや、別に高くするのは自由ですが、そんなことをすれば客が離れていくのは目に見えています。

店側としては3つの変数のうち仮に食事単価を上げようと考えたにしても、顧客に割高になったという印象を与えるのは上手くないでしょう。

しかし、だからといって「それでは内容も今より豪華にして、割高感は感じさせずに食事単価を高めるのはどうだろう」と考えてみると、これはこれでなかなか難しい気がします。

大衆店が高級料理をメニューに載せても注文する人はあまりいない。そんな事態になりそうな予感がします。

 

個人的に面白そうかなぁと思うのは、むしろ回転率をUPさせる方向ですね。

お酒を飲むことを前提としているお店のディナーは、一般に顧客の滞在時間がかなり長いものになるのが常識だと思います。

この低回転率に目をつけて、例えば席料を時間ごとの段階制(初めの30分無料、以降10分毎に○○円など)にしてみるのはどうでしょう?

これも個人的な感覚ですが、お酒を飲む人と下戸を比べたとき、一食にかかる時間はお酒を飲む人の方がかなり長い傾向にあるような気がします。

いわゆる会食の場合でも、独り飲みの場合でも、じっくり時間をかけて食事(とお酒)を楽しむのが、お酒を飲む人の特徴ではないでしょうか。

一方、下戸の人はもちろん会食を楽しむこともありますが、どちらかというと宴会の後半は酔っぱらいに付き合わされているだけというパターンも多いように感じます。*5

また、下戸の場合には「さっと食って帰る」という行動パターンが存在しますが、お酒を飲む人に「さっと飲んで帰る」というパターンはない気がします。

こうした傾向に着目すると、時間ごとの段階制席料は、下戸の人にさほど大きな忌避感もなく受け入れられるのではないかと思います。

ドリンクを注文した人については段階制席料を発生させないルールにすれば、お酒を飲む人への負担はありません。

もちろん、客単価を下げて回転率を上げるというのはビジネスモデルを変更することを意味しており、合わせて材料や設備、人員の構成も変更する必要も出てくる可能性があるため簡単に採用できるものではないと思いますが、飲食店素人のいち下戸としては、さっと食ってさっと帰れば「席料」も「ドリンク代」も「後ろめたさ」もいらない夜の飲食店があるのであれば、結構魅力的だなぁと感じるのですが、全国の下戸の皆さん、飲食店の皆さん、いかがでしょうか?

 

まあ正直、私はあまり外食をする方ではないので、仮にそんなお店が近くにあったとしても、毎週通ったりということはないと思うのですが、それでも無駄にノンアルコールドリンクが充実している飲食店よりは頻繁に足を向けることになるような気がします。

 

……もっとも、お酒を飲む人と一緒に行くときは、結局付き合いでホットミルクかなんかを頼んで「ママのおっぱいでも吸ってな!」とマスターに馬鹿にされたりするのでしょうが。(実はちょっと憧れ)

 

 

 

*1:「水でいい」という私のブコメにまあまあスターが付いていたので、それなりに同意する人は多そうですが

*2:なかなか端金を稼ぐのも難しい、みたいな話も出てきましたが……。https://anond.hatelabo.jp/20210226124417

*3:と思う

*4:ノンアルコールドリンク以外で下戸に刺さるような単価UPのアイテムを考案するという手もありますが、なかなか難しいでしょうね。デザートとか、お土産とか、いっそ食品以外のなにか……みたいなことも考えられなくはないですが、実際にチャレンジしている人もいそうな割に成功例は知りません

*5:もっとも下戸同士の会食だと酔いつぶれることがないため延々と会話が弾んでしまうというパターンもあるにはあるのですが……

緊急着陸・強制降機が合法であっても正しいとは限らない理由

president.jp

 

本件、どうもブコメなどを見ていても、論点の踏み込みが全体的に浅い印象だったので、簡単に所見を……。

 

関連の記事やそのコメント欄を眺めた限り、

  1. 航行の安全を確保するため、機長(および客室乗務員)には極めて強い権限が与えられており、彼らが危険と判断した以上、強制降機は合法である
  2. だから、正しいのは航空会社の側であり、非は男性の方にある

という意見が大勢のようです。

 

しかし、この意見はロジックとしては不完全です。

 

1については文句なくその通りであり、ですから今回の強制降機が合法であることには、何の疑いもないでしょう。

しかし、1が肯定されることが、そのまま2を肯定する根拠になりうるのかというと、冷静に考えれえば決してそんなことはないことが分かるはずです。

 

航行中に機長へ付与される強力な権限というのは、あくまでも閉鎖環境にあって通常の治安維持システム(警察力等)が機能しない状況においての「非常措置」であるため、そこには本来の治安維持システムには存在しているガバナンス(不当な警察力の行使を抑制する機構)が完全な形では適用されていません。

 

pilot-blog.net

 

ここまで読まれた方の中には、人前で縛り上げられ糞尿垂れ流しの刑に処せられるなんて人権侵害では?と思われる方がいらっしゃるかもしれません。

確かに、ヒドいですw

地上でこんなことしたら、アムネスティーインターナショナルの皆さんにドヤされることでしょう。

しかし、機内ではオッケーなんです。なぜなら、会社の規定にそう書いてあるから。その会社の規定は各国の航空法に基づき承認されたモノであり、国際航空運送協会のルールに準拠しています。

つまり、圧倒的に合法なんです

降機させられた後、シベリアの中心で幾ら人権侵害を叫んでも恐らくどうにもなりません。

地上と機上ではルールが違うんです。

安全を守るため、機内ではある意味治外法権が成り立っているといっても過言ではないでしょう。

 

こちらの記事にあるように、機内はある種の治外法権であるといえます。

これは、言い換えれば「機長の判断について正しいか否かを判断する第三者がいない一種の独裁状態」が機内には存在しているということです。

そのようなガバナンスの不完全な状態で下された決定は、(その状況自体が航空法という法律に基づき合法とされている以上)その場においては正しいものであるといえますが、事後においては改めてそれが本当に正しいものであったかを検証するプロセスを経ないことには、正当であったと評価することはできません。

今回のケースでいえば、男性側と航空会社側で主張が対立している以上、機内にあっては機長(航空会社側)の主張が優先されて強制降機の措置が採られることが正当だといえますが、措置の後、こうして航行の危険が無くなった時点においては、改めて両者の主張を比較してどちらの主張に理があるのかを検証しなければ、両者の行動の是非について判断を下すことは不可能なはずです。

そして、その事後の評価プロセスにおいて「強制降機は合法であった」という事実は、両者の主張の正当性を判断するのに際して、何らの影響も及ぼし得ないのです。

 

最後に本件に関して個人的な見解を述べるのであれば、航行中の機内でどのようなやり取りがあったのか、その事実関係について当事者*1の証言以外の情報を持ちえない我々部外者が、現段階で誰が悪いのかと犯人を決めつけること自体が浅慮であり、軽薄な行為であると感じます。

対立が続くようであれば、当事者自身が司法の場によって解決を図ることになるでしょうし、それ以外に明確な解決の手段はないと思われますので、皆様も不用意にどちらかを悪者扱いするような言動は避けるのが懸命ではないかと思う次第であります。

*1:本件の場合、同乗した乗客についても航行遅延等による利害関係が存在することから第三者と見做すことはできませんので、語られる機内の様子はすべて利害の対立する「当事者」の一方的な主張であると判断されます。

僕の考えた「最強」のベーシックインカム

note.com

 

こちらの記事を読みました。

書かれている内容には異論ありませんので、その上で僕の考えた最強のベーシックインカム(最低所得保障)について語ってみたいと思います。

上記記事に書かれているように、ベーシックインカムを語る上で要点となるのは「財源」です。

考えられる財源確保の手段は増税「歳出の振替」の2つ。

もしも後者、つまり、なにかしらの歳出を削減して予算を確保するならば社会保障費」が妥当であろうと主張されることが多いのも、上記記事の通りです。

しかし記事にある通り、同じ個人の生活を支えるお金であっても「所得」社会保障は厳密には性質が異なるものです。

非常に大雑把な言い方をすれば、平時の生活を支えるのが「所得」であり、緊急時・非常時のイレギュラーな出費を補うのが社会保障です。

ですから、社会保障費をBI(所得保障)の財源に流用するということは、単純に考えて緊急時・非常時のイレギュラーな出費を補うための予算が失われるということを意味しています。

いくら所得が保証(保障)されるようになったとしても、イレギュラーな問題(病気や障害など)が発生した際のサポートが貧弱になっていたのでは、安心して生活することはできません。

社会保障費を財源にBIを実施するという発想は、根本的に無理のあるロジックであるということができるでしょう。*1

 

 さて、社会保障費をBIの財源としない場合、手段として残されるのは増税社会保障費以外の歳出の振替」です。

ここで極端な思想の方であれば、防衛関係費や公共事業費を減らして財源に充てろと主張するのかもしれませんが、もちろん私はそんな無茶な主張はいたしません。*2

やはり、現実的に考えれば、BIを賄うだけの予算を引っ張ってくるほど縮小できる歳出は、社会保障にしろそれ以外にしろ既存の歳出項目の中には存在しないと考えるのが妥当です。

となると、BIのために新たな増税が必要となるわけですが、当然そこでは、巨額となる課税先を具体的にどこに設定するのか、という点が問題となってきます。

 とかく課税の話になると、誰もが「自分以外の誰かから取れ」と主張しだして収拾がつかなくなるのが世の常ですので、ここを多くの人が納得できる設計としないことにはBIの実現は難しいと言わざるを得ないでしょう。

 

さあ、それでは前置きが長くなりましたが、僕が考えた最強のベーシックインカムを紹介しましょう。

 

僕が考えた「最強」のベーシックインカム

 

それは、社会保障制度を維持したまま、企業に対して「雇用税(雇用1人あたりの一律課税)*3」を設けることです。

 

具体的な説明をしましょう。

上記記事の試算を参考に、ここではBIとして全国民に月額8万円を支給するものと仮定します。

現在、日本の就労人口は約6000万人、総人口は約1億2000万人。つまり2人に1人が仕事に就いています。

そこでBIの財源のため国内のあらゆる企業に対して、従業員を1人雇うごとに16万円の税金を課すことにします。*4 *5

 

非常にシンプルですが、これでBIの財源は問題なく確保することができました

かなり突飛な話に聞こえるかもしれませんが、私はこれで問題なくBI制度が機能するのではないかと考えています。

 

この案を聞いて最初に思うのは「企業に対してそんな膨大な課税をしてしまっては、どの会社もやっていけないだろう」という疑問でしょう。

ですが、問題ありません。

企業は雇用税の財源を確保するため、従業員の給与を削減すればいいのです。

例えば、ある社員に給与として月に30万円払っている場合、これを14万円に減らせば雇用税を納税するための16万円分を確保できます。

給与を減らされた社員の方も、会社から貰えるのは14万円に減った一方、新たに国から8万円が支給されるので、総額では22万円の所得を確保できる計算になります。

「えっ、結局8万円減っているじゃん!」と思った方。

確かにこの社員1人で見た場合には所得は減少していますが、仮に家族がいた場合には話は変わってきます。

例えば、この社員に子育中のため専業で家庭に入っている配偶者2人の子供がいた場合、この家族3人に対してもそれぞれ8万円の支給を受けることになるため、世帯所得は合計で42万円と、元の30万円から大幅に増加します。

なんだか単身者に厳しく既婚者に優しい制度のように思えますが、そもそもBIの本質は未就労者保護のための制度ですので、未就労者のいない世帯の負担が増加するのは、ある程度当然の話です。

もっとも、就労者しかいない世帯に何のメリットもないかというと、決してそういうわけではなく、BIの制度化によって「仮に今の職を失っても最低限の所得は保障される」という保険が得られるわけですから、そのためのコストであると考えるのが妥当でしょう。*6

 

以上、僕が考えた「最強」のベーシックインカムの説明でした。

 

 

以下、余談として「なぜそうまでしてBIを導入すべきか」についての所見を書きます。

 

 BIを導入すべき理由は複数ありますが、個人的に最も重要だと考えているのは「失業者のセーフティネット」としての機能が必要だからという理由です。

いわゆる「就職氷河期世代」の問題に代表されるように、現在の社会システムは終身雇用が約束される無期契約の従業員(いわゆる正規雇用)と、それ以外の有期契約の従業員正規雇用)の格差が強く固定化される構造になっています。

なぜ、就職活動の際に正規雇用の椅子を逃した人たちが、その後、挽回の機会なく苦しい境遇に居続けなければならないのか。

それは、日本の企業が非常に厳しい「解雇規制」で縛られており、ひとたび正規として雇用した従業員を容易に解雇できない状況にあるからです。

この解雇規制があるために、企業は正規雇用の枠を極めて慎重にしか拡大することができません

仮に業績が好調で事業拡大の好機であったとしても、あまり調子に乗って正規職員を雇いすぎてしまうと、将来、会社の業績が落ち込んだときに解雇規制のため人員削減ができず、危機に陥るかもしれない。

そういった憂慮から企業は一部の正規雇用と解雇のしやすい非正規雇用を組み合わせ、リスクを非正規雇用者の側にだけ負わせるようになってしまいました。

一般に「雇用の流動性」の低下といわれるこの問題は、日本の国際競争力低下の一因でもあると考えられます。

富める者と貧しき者の格差が固定化するのを防ぎ、企業の競争力を取り戻すためには、なんとしても解雇規制は撤廃しなければならないというのが私の考えです。

しかし一方で、解雇規制を撤廃し、自由にいつでも誰でもクビにすることができる社会が、今の所得システムのまま実現してしまえば、それは労働者として不安極まりない事態です。

 

解雇規制を撤廃する。

 

その前提としてどうしても必要になるのは、いつ解雇されても最低限の生活はできるという社会的な保証(保障)です。

そうした保証があるのならば、労働者の側としても雇い主である企業に必要以上に媚を売る必要はなく、今よりももっと活発に転職起業にチャレンジして自己実現に励むこともできるでしょう。

雇用の流動性が高まることは企業や失業者だけではなく、現に職に就いている労働者の多くにとっても、より豊かな生活をもたらすものだと私は考えます。

BIはその突破口を開くだけの可能性を秘めているアイデアであると思いますし、そうなって欲しいと願っています。

*1:もちろん、将来的にBIと社会保障を統合して、単一の制度として運用する可能性はあり得ます。

ただし、その場合には現行の社会保障とBIによる所得保障が「合算」される形で制度設計がされていることが必要です。

また、BIの導入をスムーズに行うためには、極力大掛かりな制度設計の変更は避ける方が望ましいと考えられます。

BIはそれだけでも社会制度に大きな変革をもたらすものと考えられますから、その導入と同時に社会保障制度にまで手を入れようとすると、いつまで経っても設計がまとまらず、導入が進まない事態に陥ることも予想されます。

ですから、まずは現行の社会保障制度には手を触れず、BIをそれ単体で導入し、その後段階的に社会保障とBIの統合を図っていくのが望ましいのではないかと思います。

*2:そもそも、その程度ではまったく予算が足りません。

*3:造語です

*4:経営者や個人事業主も1人と数えます

*5:フルタイム労働者でない場合には、労働時間に応じて課税額を按分します

*6:なお、現状の給与が月に16万円以下の労働者はどうなるのか、という点についてですが、これは給与がゼロまたはマイナスになってしまっては、さすがに誰も働き手に名乗りをあげないものと思われますので、企業の側も給与を増やす(雇用税16万円+給与数万円にする)必要があると考えられます。

では、その増加分の給与の予算はどうすればいいかというと、それは、より高額の給与を手にしている別の社員(例えば管理職など)の給与を減らすことで問題なく捻出できます。

なぜなら、そういった高額の給与を手にしている職員は前述のモデルで登場した社員のように、その高額の給与で家族を養ってきたケースが多く(だからこそ高額の給与を必要としていた)、BIによって家族が直接8万円の支給を受けることになれば、その分給与が減らされても所得が激減することはないからです。

こうして企業内で自主的に給与の再配分が行われていけば、結果的にモデルで示した単身者の不利は解消の方向へと向かっていきます。

「寄付」にも「ボランティア」にも「マーケティング」を

anond.hatelabo.jp

 

マーケティング不足」と一言だけブコメを書きましたが、言葉足らずだと思うので補足を。

世の中の売買は、等価交換が原則です。
現金500円を渡して、500円の価値があるクッキーを手に入れる。
この原則が崩れた取引は、どちらか一方が必ず損をすることになるため、正しい取引とはいえません。*1

 等価交換の原則が崩れた不平等な取引の問題点は、持続性が乏しいことにあります。
自分が損をする取引を、何度も繰り返したいと考える人はほとんどいません。
ですから、そのような商売が長く続くことはほとんどないと考えるのが自然です。

マーケティングという言葉の定義は非常にふわふわとしていますが、大まかに「顧客が認める価値を作り出すこと」だと言って良いかと思います。
現金500円とトレードしたいと思うならば、顧客が500円の価値があると認める商品を作り出さなければならない。それがマーケティングの考え方でしょう。

マーケティングの考え方は、いわゆる通常の「売買」だけではなく、例えば「ボランティア」であるとか「寄付」であるとか、一見すると「等価交換」ではないように思える取引に対しても応用可能なものだと思います。
「1時間の労働」という対価を支払った参加者に対して、それに見合うだけの充足感・満足感や社会的承認などの「価値」を提供できれば、参加者は1回だけではなく何度もそのボランティアに参加しようと考えてくれるでしょう。
寄付についても、得られる充足感・満足感が大きければ大きいほど、対価としてトレード(等価交換)してもらえる金額は大きくなっていくでしょう。

モノが売れないという状況の本質には常にマーケティングの失敗、あるいはマーケティングの不足が存在するはずです。
顧客が欲しいと認める価値を生み出すこと、つまりはマーケティングをおろそかにしては、持続性のある平等な取引(等価交換)による事業の継続は成立し得ません。

障害者作業所の商品については、門外漢である自分が「こういう風にマーケティングをすればいい」と安易にアイデアを出しても的外れになるだけでしょう。ですからブコメには簡潔に「マーケティング不足」とだけ書きました。

あまりにも言葉足らずだったかと思い、この文章を書きましたが、やはり門外漢が適切なマーケティングのアドバイスをすることは難しそうです。

ただ、マーケティングという言葉を「お菓子メーカーとコラボ」や「現役パティシエによるお菓子の開発」、「パッケージのデザインの工夫」などのように狭く捉えるだけではなく、より広い意味で「顧客の価値を生み出す活動全般」だと捉えた方が、商品づくりの可能性は大きく広がるのではないでしょうか。

「寄付してくれ」では付加価値が足りないというブコメもありましたが、前述のように寄付であっても、それに見合った(充足感・満足感や社会的承認などの)価値を提供しているのであれば、それは立派な「等価交換」です。 

利用者さんは1万円にも満たない工賃を毎月楽しみにしてくれています。
作業所の商品は経費を除いてすべて利用者に還元するようになっています。
だから障害者作業所の商品を買ってください。 

例えば、施設の商品を買うお客さんに、この実情がどれだけしっかりと届いているでしょうか。
自分が一枚のクッキーに払ったお金が、どれだけ利用者の方たちの楽しみ・喜びに繋がっているのか。それを知らしめるだけでも、顧客の得られる満足感という名の価値は、大きく変化するはずです。

もちろん「そんなことは既に取り組んでいるよ」と思われるでしょうし、私も素人の浅知恵だとは承知していますが、そういった活動もまた立派な「マーケティング」だということを理解して意識的にアプローチすることで、より積極的に「(言い方は悪いですが)同情を買う」仕掛けを躊躇いなく打てるようになるのではないでしょうか。

作業所内の様子をPRしたり、利用者の方の手書きのメッセージカードを付けたり、そんなありきたりの施策も立派なマーケティングの一環ではありますが、できればより大掛かりに、顧客の「虚栄心」や「自己満足の心」を煽りまくって満足させてあげる何らかの方法が考えられないものでしょうか。
個人的な直感ではありますが、そこには営利企業である一般のお菓子メーカーでは生み出すことのできないユニークで大きな価値の生まれる可能性が秘められていそうだと思います。

 

*1:ちなみに企業の利益は売買によって生まれるのではなく、製造(商品作り)によって生まれます。
500円のクッキーを300円のコストで製造する。そこで生まれた差額の200円が企業の利益となります。
クッキーと現金をトレードする段階で利益が発生する訳ではありません。