緊急着陸・強制降機が合法であっても正しいとは限らない理由

president.jp

 

本件、どうもブコメなどを見ていても、論点の踏み込みが全体的に浅い印象だったので、簡単に所見を……。

 

関連の記事やそのコメント欄を眺めた限り、

  1. 航行の安全を確保するため、機長(および客室乗務員)には極めて強い権限が与えられており、彼らが危険と判断した以上、強制降機は合法である
  2. だから、正しいのは航空会社の側であり、非は男性の方にある

という意見が大勢のようです。

 

しかし、この意見はロジックとしては不完全です。

 

1については文句なくその通りであり、ですから今回の強制降機が合法であることには、何の疑いもないでしょう。

しかし、1が肯定されることが、そのまま2を肯定する根拠になりうるのかというと、冷静に考えれえば決してそんなことはないことが分かるはずです。

 

航行中に機長へ付与される強力な権限というのは、あくまでも閉鎖環境にあって通常の治安維持システム(警察力等)が機能しない状況においての「非常措置」であるため、そこには本来の治安維持システムには存在しているガバナンス(不当な警察力の行使を抑制する機構)が完全な形では適用されていません。

 

pilot-blog.net

 

ここまで読まれた方の中には、人前で縛り上げられ糞尿垂れ流しの刑に処せられるなんて人権侵害では?と思われる方がいらっしゃるかもしれません。

確かに、ヒドいですw

地上でこんなことしたら、アムネスティーインターナショナルの皆さんにドヤされることでしょう。

しかし、機内ではオッケーなんです。なぜなら、会社の規定にそう書いてあるから。その会社の規定は各国の航空法に基づき承認されたモノであり、国際航空運送協会のルールに準拠しています。

つまり、圧倒的に合法なんです

降機させられた後、シベリアの中心で幾ら人権侵害を叫んでも恐らくどうにもなりません。

地上と機上ではルールが違うんです。

安全を守るため、機内ではある意味治外法権が成り立っているといっても過言ではないでしょう。

 

こちらの記事にあるように、機内はある種の治外法権であるといえます。

これは、言い換えれば「機長の判断について正しいか否かを判断する第三者がいない一種の独裁状態」が機内には存在しているということです。

そのようなガバナンスの不完全な状態で下された決定は、(その状況自体が航空法という法律に基づき合法とされている以上)その場においては正しいものであるといえますが、事後においては改めてそれが本当に正しいものであったかを検証するプロセスを経ないことには、正当であったと評価することはできません。

今回のケースでいえば、男性側と航空会社側で主張が対立している以上、機内にあっては機長(航空会社側)の主張が優先されて強制降機の措置が採られることが正当だといえますが、措置の後、こうして航行の危険が無くなった時点においては、改めて両者の主張を比較してどちらの主張に理があるのかを検証しなければ、両者の行動の是非について判断を下すことは不可能なはずです。

そして、その事後の評価プロセスにおいて「強制降機は合法であった」という事実は、両者の主張の正当性を判断するのに際して、何らの影響も及ぼし得ないのです。

 

最後に本件に関して個人的な見解を述べるのであれば、航行中の機内でどのようなやり取りがあったのか、その事実関係について当事者*1の証言以外の情報を持ちえない我々部外者が、現段階で誰が悪いのかと犯人を決めつけること自体が浅慮であり、軽薄な行為であると感じます。

対立が続くようであれば、当事者自身が司法の場によって解決を図ることになるでしょうし、それ以外に明確な解決の手段はないと思われますので、皆様も不用意にどちらかを悪者扱いするような言動は避けるのが懸命ではないかと思う次第であります。

*1:本件の場合、同乗した乗客についても航行遅延等による利害関係が存在することから第三者と見做すことはできませんので、語られる機内の様子はすべて利害の対立する「当事者」の一方的な主張であると判断されます。

僕の考えた「最強」のベーシックインカム

note.com

 

こちらの記事を読みました。

書かれている内容には異論ありませんので、その上で僕の考えた最強のベーシックインカム(最低所得保障)について語ってみたいと思います。

上記記事に書かれているように、ベーシックインカムを語る上で要点となるのは「財源」です。

考えられる財源確保の手段は増税「歳出の振替」の2つ。

もしも後者、つまり、なにかしらの歳出を削減して予算を確保するならば社会保障費」が妥当であろうと主張されることが多いのも、上記記事の通りです。

しかし記事にある通り、同じ個人の生活を支えるお金であっても「所得」社会保障は厳密には性質が異なるものです。

非常に大雑把な言い方をすれば、平時の生活を支えるのが「所得」であり、緊急時・非常時のイレギュラーな出費を補うのが社会保障です。

ですから、社会保障費をBI(所得保障)の財源に流用するということは、単純に考えて緊急時・非常時のイレギュラーな出費を補うための予算が失われるということを意味しています。

いくら所得が保証(保障)されるようになったとしても、イレギュラーな問題(病気や障害など)が発生した際のサポートが貧弱になっていたのでは、安心して生活することはできません。

社会保障費を財源にBIを実施するという発想は、根本的に無理のあるロジックであるということができるでしょう。*1

 

 さて、社会保障費をBIの財源としない場合、手段として残されるのは増税社会保障費以外の歳出の振替」です。

ここで極端な思想の方であれば、防衛関係費や公共事業費を減らして財源に充てろと主張するのかもしれませんが、もちろん私はそんな無茶な主張はいたしません。*2

やはり、現実的に考えれば、BIを賄うだけの予算を引っ張ってくるほど縮小できる歳出は、社会保障にしろそれ以外にしろ既存の歳出項目の中には存在しないと考えるのが妥当です。

となると、BIのために新たな増税が必要となるわけですが、当然そこでは、巨額となる課税先を具体的にどこに設定するのか、という点が問題となってきます。

 とかく課税の話になると、誰もが「自分以外の誰かから取れ」と主張しだして収拾がつかなくなるのが世の常ですので、ここを多くの人が納得できる設計としないことにはBIの実現は難しいと言わざるを得ないでしょう。

 

さあ、それでは前置きが長くなりましたが、僕が考えた最強のベーシックインカムを紹介しましょう。

 

僕が考えた「最強」のベーシックインカム

 

それは、社会保障制度を維持したまま、企業に対して「雇用税(雇用1人あたりの一律課税)*3」を設けることです。

 

具体的な説明をしましょう。

上記記事の試算を参考に、ここではBIとして全国民に月額8万円を支給するものと仮定します。

現在、日本の就労人口は約6000万人、総人口は約1億2000万人。つまり2人に1人が仕事に就いています。

そこでBIの財源のため国内のあらゆる企業に対して、従業員を1人雇うごとに16万円の税金を課すことにします。*4 *5

 

非常にシンプルですが、これでBIの財源は問題なく確保することができました

かなり突飛な話に聞こえるかもしれませんが、私はこれで問題なくBI制度が機能するのではないかと考えています。

 

この案を聞いて最初に思うのは「企業に対してそんな膨大な課税をしてしまっては、どの会社もやっていけないだろう」という疑問でしょう。

ですが、問題ありません。

企業は雇用税の財源を確保するため、従業員の給与を削減すればいいのです。

例えば、ある社員に給与として月に30万円払っている場合、これを14万円に減らせば雇用税を納税するための16万円分を確保できます。

給与を減らされた社員の方も、会社から貰えるのは14万円に減った一方、新たに国から8万円が支給されるので、総額では22万円の所得を確保できる計算になります。

「えっ、結局8万円減っているじゃん!」と思った方。

確かにこの社員1人で見た場合には所得は減少していますが、仮に家族がいた場合には話は変わってきます。

例えば、この社員に子育中のため専業で家庭に入っている配偶者2人の子供がいた場合、この家族3人に対してもそれぞれ8万円の支給を受けることになるため、世帯所得は合計で42万円と、元の30万円から大幅に増加します。

なんだか単身者に厳しく既婚者に優しい制度のように思えますが、そもそもBIの本質は未就労者保護のための制度ですので、未就労者のいない世帯の負担が増加するのは、ある程度当然の話です。

もっとも、就労者しかいない世帯に何のメリットもないかというと、決してそういうわけではなく、BIの制度化によって「仮に今の職を失っても最低限の所得は保障される」という保険が得られるわけですから、そのためのコストであると考えるのが妥当でしょう。*6

 

以上、僕が考えた「最強」のベーシックインカムの説明でした。

 

 

以下、余談として「なぜそうまでしてBIを導入すべきか」についての所見を書きます。

 

 BIを導入すべき理由は複数ありますが、個人的に最も重要だと考えているのは「失業者のセーフティネット」としての機能が必要だからという理由です。

いわゆる「就職氷河期世代」の問題に代表されるように、現在の社会システムは終身雇用が約束される無期契約の従業員(いわゆる正規雇用)と、それ以外の有期契約の従業員正規雇用)の格差が強く固定化される構造になっています。

なぜ、就職活動の際に正規雇用の椅子を逃した人たちが、その後、挽回の機会なく苦しい境遇に居続けなければならないのか。

それは、日本の企業が非常に厳しい「解雇規制」で縛られており、ひとたび正規として雇用した従業員を容易に解雇できない状況にあるからです。

この解雇規制があるために、企業は正規雇用の枠を極めて慎重にしか拡大することができません

仮に業績が好調で事業拡大の好機であったとしても、あまり調子に乗って正規職員を雇いすぎてしまうと、将来、会社の業績が落ち込んだときに解雇規制のため人員削減ができず、危機に陥るかもしれない。

そういった憂慮から企業は一部の正規雇用と解雇のしやすい非正規雇用を組み合わせ、リスクを非正規雇用者の側にだけ負わせるようになってしまいました。

一般に「雇用の流動性」の低下といわれるこの問題は、日本の国際競争力低下の一因でもあると考えられます。

富める者と貧しき者の格差が固定化するのを防ぎ、企業の競争力を取り戻すためには、なんとしても解雇規制は撤廃しなければならないというのが私の考えです。

しかし一方で、解雇規制を撤廃し、自由にいつでも誰でもクビにすることができる社会が、今の所得システムのまま実現してしまえば、それは労働者として不安極まりない事態です。

 

解雇規制を撤廃する。

 

その前提としてどうしても必要になるのは、いつ解雇されても最低限の生活はできるという社会的な保証(保障)です。

そうした保証があるのならば、労働者の側としても雇い主である企業に必要以上に媚を売る必要はなく、今よりももっと活発に転職起業にチャレンジして自己実現に励むこともできるでしょう。

雇用の流動性が高まることは企業や失業者だけではなく、現に職に就いている労働者の多くにとっても、より豊かな生活をもたらすものだと私は考えます。

BIはその突破口を開くだけの可能性を秘めているアイデアであると思いますし、そうなって欲しいと願っています。

*1:もちろん、将来的にBIと社会保障を統合して、単一の制度として運用する可能性はあり得ます。

ただし、その場合には現行の社会保障とBIによる所得保障が「合算」される形で制度設計がされていることが必要です。

また、BIの導入をスムーズに行うためには、極力大掛かりな制度設計の変更は避ける方が望ましいと考えられます。

BIはそれだけでも社会制度に大きな変革をもたらすものと考えられますから、その導入と同時に社会保障制度にまで手を入れようとすると、いつまで経っても設計がまとまらず、導入が進まない事態に陥ることも予想されます。

ですから、まずは現行の社会保障制度には手を触れず、BIをそれ単体で導入し、その後段階的に社会保障とBIの統合を図っていくのが望ましいのではないかと思います。

*2:そもそも、その程度ではまったく予算が足りません。

*3:造語です

*4:経営者や個人事業主も1人と数えます

*5:フルタイム労働者でない場合には、労働時間に応じて課税額を按分します

*6:なお、現状の給与が月に16万円以下の労働者はどうなるのか、という点についてですが、これは給与がゼロまたはマイナスになってしまっては、さすがに誰も働き手に名乗りをあげないものと思われますので、企業の側も給与を増やす(雇用税16万円+給与数万円にする)必要があると考えられます。

では、その増加分の給与の予算はどうすればいいかというと、それは、より高額の給与を手にしている別の社員(例えば管理職など)の給与を減らすことで問題なく捻出できます。

なぜなら、そういった高額の給与を手にしている職員は前述のモデルで登場した社員のように、その高額の給与で家族を養ってきたケースが多く(だからこそ高額の給与を必要としていた)、BIによって家族が直接8万円の支給を受けることになれば、その分給与が減らされても所得が激減することはないからです。

こうして企業内で自主的に給与の再配分が行われていけば、結果的にモデルで示した単身者の不利は解消の方向へと向かっていきます。

「寄付」にも「ボランティア」にも「マーケティング」を

anond.hatelabo.jp

 

マーケティング不足」と一言だけブコメを書きましたが、言葉足らずだと思うので補足を。

世の中の売買は、等価交換が原則です。
現金500円を渡して、500円の価値があるクッキーを手に入れる。
この原則が崩れた取引は、どちらか一方が必ず損をすることになるため、正しい取引とはいえません。*1

 等価交換の原則が崩れた不平等な取引の問題点は、持続性が乏しいことにあります。
自分が損をする取引を、何度も繰り返したいと考える人はほとんどいません。
ですから、そのような商売が長く続くことはほとんどないと考えるのが自然です。

マーケティングという言葉の定義は非常にふわふわとしていますが、大まかに「顧客が認める価値を作り出すこと」だと言って良いかと思います。
現金500円とトレードしたいと思うならば、顧客が500円の価値があると認める商品を作り出さなければならない。それがマーケティングの考え方でしょう。

マーケティングの考え方は、いわゆる通常の「売買」だけではなく、例えば「ボランティア」であるとか「寄付」であるとか、一見すると「等価交換」ではないように思える取引に対しても応用可能なものだと思います。
「1時間の労働」という対価を支払った参加者に対して、それに見合うだけの充足感・満足感や社会的承認などの「価値」を提供できれば、参加者は1回だけではなく何度もそのボランティアに参加しようと考えてくれるでしょう。
寄付についても、得られる充足感・満足感が大きければ大きいほど、対価としてトレード(等価交換)してもらえる金額は大きくなっていくでしょう。

モノが売れないという状況の本質には常にマーケティングの失敗、あるいはマーケティングの不足が存在するはずです。
顧客が欲しいと認める価値を生み出すこと、つまりはマーケティングをおろそかにしては、持続性のある平等な取引(等価交換)による事業の継続は成立し得ません。

障害者作業所の商品については、門外漢である自分が「こういう風にマーケティングをすればいい」と安易にアイデアを出しても的外れになるだけでしょう。ですからブコメには簡潔に「マーケティング不足」とだけ書きました。

あまりにも言葉足らずだったかと思い、この文章を書きましたが、やはり門外漢が適切なマーケティングのアドバイスをすることは難しそうです。

ただ、マーケティングという言葉を「お菓子メーカーとコラボ」や「現役パティシエによるお菓子の開発」、「パッケージのデザインの工夫」などのように狭く捉えるだけではなく、より広い意味で「顧客の価値を生み出す活動全般」だと捉えた方が、商品づくりの可能性は大きく広がるのではないでしょうか。

「寄付してくれ」では付加価値が足りないというブコメもありましたが、前述のように寄付であっても、それに見合った(充足感・満足感や社会的承認などの)価値を提供しているのであれば、それは立派な「等価交換」です。 

利用者さんは1万円にも満たない工賃を毎月楽しみにしてくれています。
作業所の商品は経費を除いてすべて利用者に還元するようになっています。
だから障害者作業所の商品を買ってください。 

例えば、施設の商品を買うお客さんに、この実情がどれだけしっかりと届いているでしょうか。
自分が一枚のクッキーに払ったお金が、どれだけ利用者の方たちの楽しみ・喜びに繋がっているのか。それを知らしめるだけでも、顧客の得られる満足感という名の価値は、大きく変化するはずです。

もちろん「そんなことは既に取り組んでいるよ」と思われるでしょうし、私も素人の浅知恵だとは承知していますが、そういった活動もまた立派な「マーケティング」だということを理解して意識的にアプローチすることで、より積極的に「(言い方は悪いですが)同情を買う」仕掛けを躊躇いなく打てるようになるのではないでしょうか。

作業所内の様子をPRしたり、利用者の方の手書きのメッセージカードを付けたり、そんなありきたりの施策も立派なマーケティングの一環ではありますが、できればより大掛かりに、顧客の「虚栄心」や「自己満足の心」を煽りまくって満足させてあげる何らかの方法が考えられないものでしょうか。
個人的な直感ではありますが、そこには営利企業である一般のお菓子メーカーでは生み出すことのできないユニークで大きな価値の生まれる可能性が秘められていそうだと思います。

 

*1:ちなみに企業の利益は売買によって生まれるのではなく、製造(商品作り)によって生まれます。
500円のクッキーを300円のコストで製造する。そこで生まれた差額の200円が企業の利益となります。
クッキーと現金をトレードする段階で利益が発生する訳ではありません。

減価償却は人生をハッピーにする……といいね

anond.hatelabo.jp

ぶっちゃけ、あんまりつっこまれると恥ずかしいんだけど。しかもプロからとか……。

「字面が強そう(賢そう)」とか「俺分かってるぜ感が出せる」とか「厨二くさくてかっこいい」とかも、正直よく分かるし。

 

恥ずかしながら改めて補足すると、ブコメでも書いたけど、要は「『物を買う=現金が減る=資産が減る』では無いよ、ということを理解すると、経済観念がガラッと変わるんじゃない?」ということが言いたかったのでございます。

「100万円の軽自動車を買う」という行為を、正しく「現金←→軽自動車」という「資産から資産の置き換え」だと認識することで「一度に100万円も使っちゃうなんて贅沢だしおっかない」という発想よりは、多少なりとも大局的な視点に進むことができる。

それで、世の中の消費や投資に影響が出たり、経済にまで影響があったりするかは分からんけれど、知識を得た個人の人生は少なからずハッピーになるんじゃないかな、と。

 

でも、正直なところ、私もこんなにスターがつくとは思っていなかった。

自炊と同じく文化資本の一種だから、自然に身に付けた人には意識されないが、持っていないと生きていくのが苦しくなるとは思う。視点が逆で、会計の考え方が役に立つというより曖昧にでも取得していないと困窮する - mori99のコメント / はてなブックマーク

このブコメにあるように、理解している人にとっては何でもない当たり前のことでその意味が伝わりづらいし、理解していない人にとっては当然何を言っているのか分からないことだと思ったから。

はてなユーザーリテラシーだと前者の方が多そうなので「あれ、本当に意図が伝わってるのかな?」と私も疑問に思っていたところ。

むしろ「それなら、これから勉強したい」という気持ちの☆もあったのかな、と思っている。学んだ先に何があるかは、人それぞれなので、同じ納得があるかどうかは未知数だが。 - kash06のコメント / はてなブックマーク

案外、この辺りが真相なのかな?

 

100万円の車を買ってしまっても、必要なくなった段階でまた売ればいい。

 

私が言いたかったのは要はこれだけのことで、でも実感としては、これだけのことを理解していない人(理解していても肌感覚にまで落とし込んで理解していない人)は、思いのほか多い。あくまで主観だけど、かなり多い。

もう一度言うけど、はてなユーザーリテラシーからすると「何を今さら」的な話だと思っていた。でも、理解していない人にとっては、目からウロコ的な概念だと思うんだよね。

 

あと、私があえて今こんなことを書いたのは、昨今「非現金資産」を「現金」に変えるためのハードルが昔に比べてずいぶんと下がってきていると感じているから、という部分もある。

「出費」を分解しましょう、と。自動的に価値が減るもの、減らないもの。単発の出費と捉えるべきか、耐用年数で割って年あたりで考えるべきか。ヤフオクやメルカリは、多くの「消耗品」を「備品」に変更した、とか。 - deztecjpのコメント / はてなブックマーク

ちょうど、私が思っていたのと同じような発想のブコメがついていたので引用。

ヤフオクやメルカリは、多くの「消耗品」を「備品」に変更したってあるけど、これは本当にそのとおりだと思う。

100万円の軽自動車と言わずとも、何なら「鉛筆」だろうが「口紅」だろうが、何でも使いかけでキャッシュに変換できる時代になっている。

もっとも、そうやってメルカリを使いこなしているのは、おそらく複式簿記など知らない若い世代が中心なわけで、そういう意味ではあえて「減価償却」なんて理屈から入らなくても、それこそ「肌感覚」で彼らは資産と費用の違いを理解しているのだとは思う。

でも、そういった肌感覚を改めてロジックで理解し直すことで、より確固な経済観念が備わるのだと思うし、だからやっぱり、全人類が簿記3級のテキストを読むと、世界は今よりももっと良くなる(ハッピーになる)のではないかと思う訳なのです。

 

あと、最後にもう一度言うけれど、この話題、恥ずかしいから、みなさん、ぜひとも何卒お手柔らかによろしくお願いいたします。

よしなに。

 

 

 

 

 

 

ゾーニングは規制か?

tyoshiki.hatenadiary.com

 

論点整理を目指して、なるべく簡潔に書きます。以下、私見です。

 

Q:ゾーニング表現規制か?

A:表現規制である。

 仮に公権力によらなくとも「規則によって物事を制限する」行為は規制と言って間違いないと思います。

※参考までに、下記のような表を作ってみました。 *1

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Q:表現規制の何が問題か?

A:民主主義の根幹が脅かされること。

 「表現の自由」は民主主義の大前提です。民主主義はひとりひとりが自由に情報を入手し、その情報を元にひとりひとりが判断を行い、その判断を集約して合意形成を行うことで正しい答えを導き出そう、という考え方です。

前提となる「自由な情報の入手」が成立しなければ、民主主義は決して正しい答えを導き出すことができないのです。

 

Q:公権力によらない規制は問題か?

A:公権力による規制に比べればはるかに危険性は低いが、それでも危険性はある。

 一般に「表現規制」は権力側によって行われるものと考えられます。反対意見を封殺することで、体制の維持がしやすくなるからです。

しかし、公権力によらない規制(自主規制)であっても「自由な情報の入手が制約される」という結果そのものに違いはありません。また、形式的には自主規制の形であっても、実質的には公権力の圧力に基づくものであることもあり得るため、公権力によらない規制が無害であるとは言えません。

 従って、公権力による規制に比べれば小さいものの「表現規制の害」は存在すると考えられます。

 

Q:表現規制は一律で否定されるべきなのか。

A:否定されるべきではない。公共の福祉を優先すべきこともある。

 前述の通り、表現規制は民主主義の根幹が脅かす危険な行為ですが、それでも、その表現が他者に多大な不利益をもたらす場合などには、規制される必然性が高くなります。

 

Q:「公共の福祉により表現が規制される場合」とはどんな場合か?

A:その表現が他者の権利を著しく侵害する場合。

 その表現が他者の権利を著しく侵害している場合(「表現の害」が大きい場合)には、表現を規制する必然性が高くなります。

前述した表現規制によって発生する問題(表現規制の害)と比較して「表現の害」の方が大きい場合には、その表現は規制されるべきだと考えられるでしょう。

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Q:その表現が社会に貢献しているか否か(表現の利益)も含めて、表現規制の是非を判断すべきではないのか?

A:「表現の利益」の多寡によって表現規制の是非を判断してはいけません。

 世の中には「低俗な表現」や「高尚な表現」などという言葉があるように、様々な表現が存在しています。

しかし、民主主義の前提である「自由な情報の入手」を保護しようという立場でこれらの表現を眺めたとき、そこに一切の優劣をつけることがあってはなりません

なぜなら、何が低俗かを判断するのは個人ひとりひとりであって、他者がそれを事前に判断するものではないからです。

低俗な表現も含めスクリーニングなくあらゆる情報を自由に入手し、その情報を元に正しい判断を導き出していくことができる状態なくしては、健全な民主主義社会は成立することができないのです。

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Q:「表現の害」をどのような尺度ではかるべきか?

A:表現によって「個人」が受けるダメージの大きさを尺度として。

 「害の大きい表現」とはどのようなものかを考えるとき、私は「その表現が『個人』に与える危害の程度がどの程度の大きさか」という一点に絞って、害の大きさを判断すべきだと考えます。

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*2

例えば(実写の)児童ポルノは対象となった児童個人の人権に多大なダメージを与えますし、脅迫や恫喝なども同様に個人の人権を著しく侵害するのものです。

一方で、昨今話題となっているエロ・グロを含む表現は(上記の表現に比べれば)個人への危害は大きくないため、相対的に「表現の害」も小さいものと私は考えます。

また、この尺度を元に考えていくと、いわゆる「ヘイトスピーチ」や「(LGBT等)マイノリティへの差別的な発言」などについても、特定個人への直接的な危害は相対的に大きくなく、「(表現規制の対象を判別する上での)表現の害」は小さいものであると考えられます。

 上図でいうところの「右側」に行くほど「表現の害」は大きく規制の必然性も高い。「左側」に行くほど「表現の害」は小さく規制の必然性も低い。

この一軸によって「表現の害」を判断していくべきだというのが、私の考えです。

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Q:(ヘイトスピーチなど)間接的に個人への危害を及ぼす可能性のある表現については、その可能性を含めて規制の必然性を判断すべきではないか?

A:間接的な危害の可能性については、表現規制の根拠とすべきではないと考えます。

 特定の差別的な言論が放置され、そのような思想が拡大することによって、結果的に被差別者に危害が及ぶ(権利が侵害される)という現象は確かに存在します。

しかし、そのような間接的な危害の可能性を想定して予防的に表現規制を実施した場合、その運用は極めて恣意的になっていく危険性が非常に高いと私は考えます。

表現規制において最も重要なのは恣意的な運用を許さないことであり、その意味において直接性のない危害の可能性を規制の判断材料とすることは、厳に慎むべき行為であると思います。

 

 

以上、主に「表現規制の判断基準はどうあるべきか」という点に絞って、私見を述べさせていただきました。

最後に。本稿ではあえて「個別の表現について表現規制の対象とすべきか」については立ち入りませんでしたが、公平のために「私自身はかなり規制に消極的なスタンスであると自認している」ということだけは宣言しておきたいと思います。

*1:ゾーニングやレーティングは公権力によって行われることもありますが、ここでは省略しています

*2:プロットは私見によるざっくりとした一例です。実態とは乖離がある可能性があります。

ブコメの補足

緊急発表 (平成30年2月8日午前) 全国の地域公共交通を守るために、敢えて問題提起として赤字路線廃止届を出しました。 | 小嶋光信代表メッセージ | 両備グループ ポータルサイト

新規参入は認める。赤字撤退も認める。僻地の人間は自費で足を調達するか、都会に移り住め。……それが一番合理的で公平な判断。日本には居住移転の自由があるのだから。

2018/02/10 01:03

b.hatena.ne.jp

文字数の関係で書ききれませんでしたが、続きがあります。

 

  • だから長期的には、合理性・公平性を重視したコンパクトシティを志向すべきである。
  • ただし短期的には、合理性・公平性を犠牲にしてでも過疎地の人間を保護する移行期間が必要だろう。
  • 合理性・公平性に反した施策は民間に委ねられるものではなく、国民全体の選択(国策としての決定)が必要だろう。

 

以上です。

文字数制限のある中で、あえてこの後段の方を省略したのは、はてなでは「過疎地を保護すべき」という意見が大勢になるであろうことが予想できたため、その選択が不合理・不公平なものであることを強調しておきたいと考えたからです。

※不合理・不公平であっても実行しなければいけない場合もある、というのは上記のとおりです。問題は「いつまで」「どこまで」不合理・不公平な方針を取り続けるべきか、という点について、明示的に結論を導き出すことだと思います。

Nintendo LABOは布石に過ぎない

Nintendo LABOの何が凄いか。

n-styles.com

色々な人が、色々な視点からNintendo LABOを絶賛する記事を書いている一方で、何が凄いのか全く分からないという声も見受けられます。

anond.hatelabo.jp


特に多く見られるのはイデアの斬新さに対する賞賛の声ですが、個人的には今回のNintendo LABOの発表に関して「最も驚愕に値するポイント」は、もっと他の部分にあると感じました。

以下、私が「凄い」と感じたポイントについて話をしていきたいと思いますが、その前に一点、以下の話は「Nintendo LABOの企画がNintendo Switchの発売以前から進行していた」という推測を前提にしたものであるということをお断りしておきます。
発表タイミングなど諸々の状況から考えて、Nintendo LABOがNintendo Switch本体のローンチ以前からNintendo Switch関連プロジェクトの基本戦略に組み込まれていたアイデアであることはほぼ確実だと私は確信していますが、あくまでも証拠に基づかない推測である以上、この点が誤りであれば以下の考察はあまり意味を成さないものになってしまう可能性があるということは、事前に了承しておいていただきたく思います。

「ゲーム」ではなく「おもちゃ」を作った

さて、私がNintendo LABOを「凄い」と感じた最大のポイント、それはNintendo LABOで実現されているソリューションの本質が「ゲームではなくおもちゃである」ということにあります。
公開された動画などの中でダンボールを使って作られたガジェットのうち、私が特に驚いたのは「ラジコン」と「ピアノ」です。
一見すると、技術的なアイデアの斬新さ・面白さに目を奪われてしまうため、これらの異質性に気付くのが遅れがちになりますが、よくよく考えてみるとこれらのガジェットは「ゲーム会社」が提案する遊びのカテゴリとしては明らかに特異な存在です。
何しろ、これらのガジェットは、それ単体では何ら「ゲーム性」を持たない一般的な「おもちゃ」に過ぎません。私も子供の頃、親にラジコンを買ってもらって遊んだ経験がありますが、当然それは「玩具メーカー(おもちゃ会社)」が作った製品であって「ゲーム会社」が作った製品ではありませんでした。ゲーム会社は「デジタル技術」を武器にして「ゲーム性」のある「遊び」を提案し、おもちゃ会社が得意とする比較的「アナログ寄り」の「遊び」には進出しない。それがこれまでのゲーム業界の常識でした。そして、任天堂は今、この両者の間にある垣根を飛び越えて、おもちゃ会社たちの跋扈する「ガチのおもちゃ市場」という名の戦場へ殴り込みを開始しようとしている。私はNintendo LABOがその開戦の狼煙であると理解しました。

周知のように、任天堂のターゲットが低年齢層(主に児童)であるというのは今に始まったことではありません。ソニーマイクロソフトとの比較をするまでもなく、任天堂のメインターゲットが低年齢層であることに異論のある人はいないでしょう。
つまり低年齢層を相手に商売をすると決めた任天堂にとって、本当のライバルは今も昔もソニーでもマイクロソフトでもなく、あるいは(小学生相手では大きな課金を期待できない)スマホゲームでもなく、タカラトミーエポック社バンダイなどの「おもちゃ会社」であったと推察できるのです。
子供たちが「遊び」に使うことのできるお金、そして時間は、当然の事ながら有限です。クリスマスにサンタクロースが買ってくれる……もとい贈ってくれるプレゼントは、大抵ひとりひとつに限られます。子供たちが毎年毎年「どうぶつの森」の新作ソフトをリクエストしてくれれば万々歳ではありますが、仮に「ラジコン」や「ドールハウス」のブームが学校で巻き起こってしまえば、任天堂はそこに乗っかりたくても乗っかるためのタマを持ち合わせていない……というのがこれまでの状況でした。
このジレンマを一変させるために任天堂が満を持して繰り出してきた驚きの戦略。それこそが自社の「おもちゃ事業」への参入です。

今回、任天堂はソリューションをダンボールというチープな形に乗せて提案してきました。組み立てる楽しさ、知育玩具としての立ち位置の確立。それらは確かに理由としてもっともではあるし、狙いの一部には違いないと思われますが、より大きな意図は別にあると私は考えています。
それは、これがサードパーティに向けたプレゼンテーションの一環であり、あえて発展性を残した素のアイデア(ソリューションの核となる部分)だけを見せることで、彼らの想像力を刺激する作戦であるという可能性です。
前述の通り、任天堂は既存のおもちゃ会社に対して宣戦布告をしているのだと私は考えています。ただし、その戦い方は正面攻勢ではありません。あくまでも「ゲーム会社」としての強みを活かして、ゲーム会社らしい戦い方で、おもちゃ会社に向けて喧嘩を売っているのです。
ゲーム会社が持つ、おもちゃ会社には無い2つの強み。
それは「デジタル技術」と「ネットワーク外部性」です。

近年、デジタルゲームではない一般のおもちゃの中にも、デジタル的な要素を持った「ハイテク玩具」とでもいうべきおもちゃの一ジャンルが確立されています。
しかし、これらのハイテク玩具はデジタル部分に対して相応のコストが発生しているであろうことは想像に難くなく、逆に言えばここを削減できればコスト面で圧倒的な優位に立つことができるものと考えられます。
例えば、Nintendo LABOで実現したラジコンを、ダンボールではなくプラスチックなどで作り込んでサードパーティが発売したとき、おもちゃ会社が1から10まで自社で製造したラジコンよりもはるかに少ないコストで、同等の製品が実現できる可能性が生まれたのです。

結論を言いましょう。
任天堂が目指す戦略、それは「ゲーム業界でのノウハウを活用した、おもちゃ業界における新たなプラットフォームの構築」であると私は予想します。

任天堂はゲーム会社として、ソフトウェア会社と共にプラットフォームそのものを成長させる(ネットワーク外部性を活用する)戦い方を極めてきました。
プラットフォームビジネスのエキスパートである任天堂がおもちゃ業界に殴り込みを掛けるに当たって、このノウハウを活用しない手はありません。
任天堂サードパーティとして、どこを主なプレーヤーと想定しているかまでは分かりませんが、おそらくまずは、既存のおもちゃ会社とのタイアップを狙ってくるのではないでしょうか。
タカラトミーにしろエポック社にしろ、プラットフォームが成長し切った段階に至ってしまってからでは、もはやプラットフォームに参加する旨味は無くなってしまいます。
任天堂がまだプラットフォームの成長のため新規参入に対して下手に出ている早期のうちに一定のポジションを築くのが得策だと考える会社が複数現れれば、その時点で任天堂の勝利は確定したも同然でしょう。

それを実現した組織が凄い

以上が、私がNintendo LABOから予想した任天堂の戦略ですが、私が本当に「凄い」と感じた点は、この戦略を任天堂が思い付いたことではありません。
もちろん、戦略自体も素晴らしいものではありますが、それ自体は今の時点では成功するか否かも分からず、絶賛するほどのものではないと思います。
私が感動したのは、ゲーム分野で圧倒的な歴史と地位を築いてきた任天堂「ゲーム」という得意分野を離れて「おもちゃ」全般へと事業ドメインを拡張することができたこと。私はその組織文化にこそ、感銘を受けたのです。

冷静になって考えてみてください。
今、任天堂の一線で働いている社員のほとんどは、任天堂ファミコンの会社であると知って入ってきた人たちばかりです。
「自分たちはファミコンの後継を作るのだ」と燃えて入社してきたエンジニアが「これからはゲームではなくおもちゃ作りに力を入れていく」と言われたとき、はたしてどれだけの反発が生まれるでしょうか。
取引先についても同様です。今までゲームを作るために協力してきてくれた多くの取引先に対して「これからはゲームよりもおもちゃに重点を置くので、おたくとの付き合いは薄くなる」と躊躇いなく言うことのできる人がどれだけ存在するでしょうか。
しかし、任天堂は「世界のユーザーへ、かつて経験したことのない楽しさ、面白さを持った娯楽を提供すること」という基本方針を過度に小さく捉えることなく、この大胆な方針転換を既に完遂しました。

最初に述べたように、私はNintendo SwitchはNintendo LABOとそれ以降の展開を見越して設計されたものであると確信しています。
もしもNintendo LABOのような利用法をするのでなければ不要だったはずの仕様、逆に省かなければならなかった機能などがNintendo Switchにはきっと存在しているはずです。
Nintendo Switchは単なるゲーム機ではなく、周囲に様々な「ガワ」をくっつけることで新たなおもちゃを生み出すことのできる「おもちゃプラットフォーム」の核となるべく開発された製品でした。
賽は既に投げられているのです。
もちろん、大コケをしないようにリスクヘッジはしていることでしょうが、それでも任天堂はこのNintendo LABOのために既に多大なコストを投下しているのです。

私は任天堂の組織について深い知識を持っているわけではありませんが、ここまでの挑戦を成し遂げたという一点だけを以ってしても、任天堂にはいわゆるイノベーションのジレンマを打ち破るだけの「凄い」組織文化が根ざしているのだと評価せざるを得ないのです。

 

※最後に関連として、任天堂の組織について書かれた以下の記事が興味深かったため、ご紹介しておきます。

www.orangeitems.com