表現の自由性を保つために制約されるべき表現

まえがき

はてなブックマーク Advent Calendar というには、あまり一年の総括っぽくない&真面目腐った内容で恐縮ですが、この一年何度かブコメで書きたいと言ってきたテーマを書いてみました。

初めは読みやすく「です・ます」で……と思っていたのですが、なんかそれでは書き終わりそうもなかったので、とにかく書きやすさ優先でタイプしていったら、めちゃくちゃ固くて読みづらい文章になってしまいました。

内容もどうしても二重否定などが多く非常にややこしい話なので、自分でも読むのがしんどいくらいなのですが、この年の瀬に悪文を読み解いて頭の体操をしてみたいという奇特な方がいらっしゃいましたら、是非ともお付き合いいただければ幸甚です。(どうしても無理という人は「あとがき」だけでも読んでくれると嬉しいな)

それでは、しばしお目汚し、失礼いたします。

 

※この記事ははてなブックマーク Advent Calendar 2021 - Adventarの12月23日の記事です。

 

目次

 

本文

2021年も相変わらず表現の自由に関する話題が目白押しだった。

近年特に顕著なのは、公的機関による直接的な規制よりも、私人間で他者の表現の在り方について批判を行い「その表現には問題があるので、取り下げるべきである/修正すべきである/表現の場を限定すべきゾーンニングすべき)である」といった論旨を展開して自警団のように振る舞う論客の台頭であるように感じる。

専門用語としての「表現の自由」が、原則として国家と個人の関係の中で国家に対する縛りとして規定されたものと解されるのは既知の通りであるが、そもそも「自由な表現の担保された社会」の維持が社会的強者の専横を抑止し社会的弱者の権利を保護するための安全弁になるという民主主義の基本原則を鑑みれば、たとえ私人間であっても「社会において自由な表現の発露が担保されている度合い(以下、便宜上「表現の自由」と呼称する)」を安易に損なうが如き振る舞いは、公共の福祉によって制約を受けて然るべきであると私は考える。

一方、こうした表現への抑圧を企図した言説もまた、それ自体が「表現」の一部であることは確かであることから、特に論理的な補足なくこれを制約すべきと主張した場合、その主張もまた「表現を抑圧する表現」として制約されるべきであるという、一種のトートロジー的な自家撞着が発生する。

もっともこれは、あくまでも言葉遊びの域を出ない表層上の反論に過ぎず、要は例外事項として論理を補足すれば、それで矛盾は解消する。

すなわち、

  1. 表現の自由性を損なうような表現は、公共の福祉により制約を受けるべきである
  2. ただし、表現の自由性を損なうような表現に対して、その抑止を促すような表現については、特にその限りではないとする

という二段階の論理構成で原則を規定することは何ら矛盾をきたすものではないのだから、少なくとも理屈の上ではこうした主張は問題なく成立すると言い切れる。

ただ、このようにして特定の表現(表現の自由性を損なうような表現の抑止を促すような表現)を例外として扱うべきと主張する以上は、同時にそのような表現が他の表現と比較したとき、例外を設けるに値する何らかの特殊性を有していることを示す必要が生じるだろう。

この点、(これもまたトートロジー的な論法となるが)「表現の自由性を自ら毀損する表現を表現の自由性によって保護する行為は、その行為自体が表現の自由性を毀損する行為として矛盾する」という論理が、その特殊性を示す有力な論拠となると私は考える。

そもそも、上述の制約は表現の自由性を高い水準に保持することを目的としたものであり、これと真逆の結果をもたらす表現を例外的に保護の枠外とすることは、その本旨からしても何ら矛盾を生まないどころか、むしろ整合性の上で不可欠な要素であるとすら考えられるだろう。

 

さて、以上の通り、私は表現の自由性が社会的弱者を保護する上での安全弁として極めて重要な要素であるとの視点から、表現の自由性を損なうような表現はこれを公共の福祉によって制約すべき(これ自体が表現の自由性を部分的に損なう言説ではあるが、例外として制約の対象外とする)だと考えたが、この理念の実現にあたっては加えて考慮すべき事項が存在する。

それは、そもそも公共の福祉により制約を受けるべき性質の表現(他者の権利を著しく侵害する表現等)について、これを抑止するような表現は制約を受けるべきか、という疑問についてである。

結論から言えば、これらの表現については(外形上は表現の自由性を損なう表現ではあるものの)公共の福祉による制約の例外として、特に許容されるべきであると考えられる。

これは、そもそも公共の福祉により制約を受けるべき性質の表現というのは、それによって侵害される他者の権利との比較によって制約を受けるのが妥当だと解されるものを指すのである以上、これを許容するのは社会に対してデメリットの方が大きいということであり、必然的にそうした表現を抑止するような表現についてはメリットの方が大きくなる可能性が高いことが予想されるからである。

 

以上、これまで考察を行ってきた表現の自由性を損なう表現に対する制約の必要性について、結論をまとめると以下の通りとなる。

  1. 他者の表現を制約するような表現は公共の福祉により制約を受けるべきである
  2. 表現の自由性を損なうような表現に対して、その抑止を促すような表現については、1の限りではないとする
  3. 公共の福祉により制約を受けるべき性質の表現に対して、その抑止を促すような表現については、1の限りではないとする

また同時に、表現に依らずその他様々な実行手段によって他者の表現を制約するような行為についても、同様に公共の福祉による制約の対象とすべきであろう。

一例として挙げるならば、表現の差し止め、修正、ゾーンニング要求を目的とした署名や抗議、商品の不買運動などがそれである。

 

では、こうした理念を具体的に人々へと浸透させ、表現の自由性を高く保持し続けられる社会を構築するためにはどのような方策が考えられるだろうか。

まず第一に考えれるのは、人々への意識への働きかけである。

すなわち、上述の理念について広く共感を図り、2種の例外のケースを除き原則として他者のあらゆる表現についてこれを制約・抑圧するような行為・言動・表現は不当であり、避けるべき行いであるというコンセンサスを構築していくこと。

こうした意識がある種の社会常識として広く人々の共通認識となったならば、表現の自由性は今よりも高い水準で安定的に保持されるようになるだろう。

第二の方策として考えれるのは、法的な規制の導入である。

これはより強力な手段であり、当然のことながらその危険性も第一の手段に比べればはるかに大きい。

表現の自由性を保持する目的であるとはいえ、その手段として部分的とはいえ表現の自由性を狭めるような規制を導入することへ抵抗感は私個人としても少なからず存在する。

しかし考察の中で述べたように、他者の表現を制約するような表現を制約することは、表現の自由性を保持するという目的に照らして逆行ではなく、むしろ前進であると私は考える。

具体的な法制度の在り方について、慎重な議論が必要なことは無論であるが、ひとつの可能性として検討すべき考え方ではないかと思われる。

 

FAQ

その他、本文で触れられなかった主要論点についてFAQ形式で補足

Q:なぜ表現の自由性が重要なのか

A:表現行為の自由性を保持することは、民主主義社会の基盤かつ不可欠な前提であるため。
 表現の自由言論の自由)は弱者が強者による不当な抑圧に対抗するための最終手段であり、これを堅持することは民主的な手続きによって弱者の権利を保護するために極めて重要な事柄である。

※この点については、あえて私が語るまでもなく多くの法律家、思想家、論客によって説明が為されている考え方である一方、人によってその重要性についての捉え方に大きな温度差のある部分でもあると感じている。機会があれば改めて参考文献などを紐解きながら文章にしてみたい。

 

Q:他者の表現を制約するような働きかけ(制約を受けるべきもの)にはどのようなものがあるか

A:一例として以下の通り。

  • 公表差し止めの要求
  • ゾーンニングの要求
  • 表現修正の要求
  • 表現の差し止め、ゾーンニング、修正を目的とした圧力
    • スポンサーへの抗議
    • スポンサー商品の不買活動

 

Q:「見たくないもの(不快な表現)を見ない権利」は認められないのか
A:人権の一部として当然に認められるべきである。
しかし、一方でこうした権利の行使によって表現の自由性が損なわれることによる社会的なデメリットは甚大であることから、極めて特殊な事情が存在する場合を除いて、こうした権利に基づく表現への制約(ゾーンニングや表現の差し止め要求)は、公共の福祉により制約を受けるべきである。
これは「見たくないものを見ない権利」が専ら広く一般の人々の一時的な感情を保護するものであり、相対的に見て重篤な被害を継続的に被る危険性は低いと考えられるのに対して、表現の自由性が損なわれた場合、最初に権利が脅かされる可能性が高いのは社会的弱者であり、またその危害の程度もより深刻となり得ることが予想されることからも支持される。

 

Q:公共の福祉により制約の必要性が認められる表現とはどのような表現か
A:特定の個人に対して重篤な被害を与える表現である。
表現の制約の必要性については、専らその表現が直接個人に与える危害の大きさによって判断を行うべきであり、その表現が危害を加える個人の数(影響範囲)によって判断を行うべきではない。

これは、表現による危害は原則としてそれに対抗する表現によって回復を図ることを第一とすべきであり、そうした原則を設けなれば、安易かつ恣意的に表現への制約が加速していきかねないと考えられるからである。
例えば誹謗中傷や洗脳(マインドコントロール)などのように対象となった個人が直接的に深刻かつ回復困難な危害を被るケースについては相対的に表現への制約の必要性が高いと考えられる一方、その表現に接した人が単に不快感を覚えるだけのケースや、その表現に触れて感化された人々が増加することによって間接的に危害のリスクが高まるに留まるようなケースについては、いずれもそれに対抗する表現(元の表現を差し止める表現ではなく、元の表現の誤りを指摘したり、元の表現とは異なる価値観を提示する表現)を用いることによって危害を回避あるいは回復できる可能性が存在することから、相対的に制約の必要性は低いと考えられる。
なお、こうした原則に基づいて判断を行うならば、例えば個人を限定せず特定の属性の人々に対して攻撃や侮蔑のメッセージを発するいわゆる「ヘイトスピーチ」などは、その定義からいって必ずしもすべてが個人に対する直接的な危害の程度や回復困難性が高いケースばかりであるとは断定できないことから、制約の必要性については個別の事案に応じたより慎重な判断が望まれるものと考えられる。

参考:ゾーニングは規制か? - ドサンピン茶

 

あとがき

いかがだったでしょうか(←言ってみたかった)。

かなり過激なことを言っているのではないかという自覚はあるのですが、昨今の表現の自由性に対する無思慮(としか思えない)な言動やムーブメントの数々には、本当に危機感を覚えており、ここらでそれらと明確に対抗する動きを見せなければヤバいのではないかという思いが募る今日このごろゆえに、このような話を年末に書き起こすに至った次第です。

なお、本文やFAQに書き漏らしたことですが、今回問題として取り上げているのは「他者の表現」を抑圧する表現についてであり、発信者の一員が自分たちの表現について内輪でストップを掛けるケースは応用問題としてまた一考が必要だと考えています。

例えば、〇〇市の市議会がマスコットとして採用したキャラクターについて、市民以外の人間が差し止め等を要求するのは他者の表現の抑圧である一方、〇〇市の市民が発信者側の立場として差し止めや修正を主張するのはやや事情が異なるという考え方です。(もっともその場合でも、あくまでも発信者集団の一部でしかない個人が、どこまで全体の意思決定に異を唱えることができるのか、ストップの要望を発信する手段はどのようなやり方が望ましいか、など考えるべき事項は多くありますが……)

思えば数年前、ポリティカル・コレクトネスという言葉が日本で知られるようになった頃から「悪い思想」「誤った思想」を排除しようという主張が目に見えて勢力を増してきているように思われます(主観なので勘違いかもしれませんが……)。

人を傷つける表現、特定の属性の人を貶める表現、人を傷つけたり特定の属性の人を貶める社会へと思想を誘導するような表現。

こうした表現が消えることで、より良い社会が実現する。

それは、ある一面においては事実でしょう。

表現によって傷つけられる人がいなくなり、誰も弱者を傷つけないような世の中へと変貌すれば、今より社会は良くなるはずです。

しかし、そうした理想を信奉する人は、ひとつ決定的な事実を見落としています。

それは「悪い思想」「誤った思想」を排除しようとするならば、必ず誰かがその思想を「悪い・誤ったもの」だと判断しなくてはならないということです。

「悪い・誤った思想」を「悪い・誤った思想」だと判断するのは誰でしょう?

それはあるいは国であり、裁判所であり、「こういう表現は本当にまずいよね、儲からないよね」というふんわりとした社会的合意かもしれません。

しかし、いずれにしても、これらの背景には共通して、社会の多数派が構成する世論、マジョリティの論理が存在します。

「皆が正しいと信じる思想、皆が正しいと思う理念、それを追求するのが民主主義ではないか」と思ったならば、それは誤りです。

民主主義は少数の意見をきちんと汲み上げ俎上に乗せる。多数決は最終的な意思決定の際に用いられるひとつの手段に過ぎません。

そして少数の意見を汲み上げるために最後まで堅持しなければならない究極の人権が、思想の自由であり表現の自由なのです。

どんなに不当な差別に晒されていても、声をあげることさえできれば救済の可能性は残される。

逆に言えば、救いを求める声が閉ざされれば、もはや弱者が正当な手段で自らの権利を回復する道も閉ざされます。

表現の自由性が最大限に尊重されなければならないのは、まさにこのためです。

個人に深刻な危害が生じる場合を除いて、あらゆる表現に制約を設けるべきではないというのは、そうした制約の判断が常にマジョリティ(あるいは強者)の意見によって為されるものである以上、そこには弱者がSOSを発信する最後の手段すら奪いかねない危険性がつきまとうからに他なりません。

確かに世の中には見るに堪えない表現や、明らかに世の中にマイナスの影響を与えるであろう表現が蔓延っています。

しかし、こうした大多数の人間が眉をしかめて目をそむけるような表現こそ、真っ先に制約を受けやすく蟻の一穴となって表現の自由性を損なうキッカケとなってきたことは歴史を見ても明らかである以上、私たちは弱者の権利を保護するために、なによりもこうした「悪徳」とすら思える表現を、まず第一に保護していかなければならないのです。

本来、世の中を良くしたいという意欲に燃え、特に人権に篤い気持ちを持っているはずの人々が、よりにもよって、もっとも弱き立場の人々の最後の砦となるべき表現の自由性を安易に毀損しようとしている現状は、まさに悲劇と言っても過言ではありません。

どうか、弱者の気持ちに寄り添うことのできる人権意識の高い人々が、今少し思慮の幅を広げて、より深刻な権利侵害へと追い込まれた弱者の最後の希望を失わせることのないよう願っています。

 

ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ←「建設的にな~れ」のおまじない