ゾーニングは規制か?

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論点整理を目指して、なるべく簡潔に書きます。以下、私見です。

 

Q:ゾーニング表現規制か?

A:表現規制である。

 仮に公権力によらなくとも「規則によって物事を制限する」行為は規制と言って間違いないと思います。

※参考までに、下記のような表を作ってみました。 *1

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Q:表現規制の何が問題か?

A:民主主義の根幹が脅かされること。

 「表現の自由」は民主主義の大前提です。民主主義はひとりひとりが自由に情報を入手し、その情報を元にひとりひとりが判断を行い、その判断を集約して合意形成を行うことで正しい答えを導き出そう、という考え方です。

前提となる「自由な情報の入手」が成立しなければ、民主主義は決して正しい答えを導き出すことができないのです。

 

Q:公権力によらない規制は問題か?

A:公権力による規制に比べればはるかに危険性は低いが、それでも危険性はある。

 一般に「表現規制」は権力側によって行われるものと考えられます。反対意見を封殺することで、体制の維持がしやすくなるからです。

しかし、公権力によらない規制(自主規制)であっても「自由な情報の入手が制約される」という結果そのものに違いはありません。また、形式的には自主規制の形であっても、実質的には公権力の圧力に基づくものであることもあり得るため、公権力によらない規制が無害であるとは言えません。

 従って、公権力による規制に比べれば小さいものの「表現規制の害」は存在すると考えられます。

 

Q:表現規制は一律で否定されるべきなのか。

A:否定されるべきではない。公共の福祉を優先すべきこともある。

 前述の通り、表現規制は民主主義の根幹が脅かす危険な行為ですが、それでも、その表現が他者に多大な不利益をもたらす場合などには、規制される必然性が高くなります。

 

Q:「公共の福祉により表現が規制される場合」とはどんな場合か?

A:その表現が他者の権利を著しく侵害する場合。

 その表現が他者の権利を著しく侵害している場合(「表現の害」が大きい場合)には、表現を規制する必然性が高くなります。

前述した表現規制によって発生する問題(表現規制の害)と比較して「表現の害」の方が大きい場合には、その表現は規制されるべきだと考えられるでしょう。

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Q:その表現が社会に貢献しているか否か(表現の利益)も含めて、表現規制の是非を判断すべきではないのか?

A:「表現の利益」の多寡によって表現規制の是非を判断してはいけません。

 世の中には「低俗な表現」や「高尚な表現」などという言葉があるように、様々な表現が存在しています。

しかし、民主主義の前提である「自由な情報の入手」を保護しようという立場でこれらの表現を眺めたとき、そこに一切の優劣をつけることがあってはなりません

なぜなら、何が低俗かを判断するのは個人ひとりひとりであって、他者がそれを事前に判断するものではないからです。

低俗な表現も含めスクリーニングなくあらゆる情報を自由に入手し、その情報を元に正しい判断を導き出していくことができる状態なくしては、健全な民主主義社会は成立することができないのです。

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Q:「表現の害」をどのような尺度ではかるべきか?

A:表現によって「個人」が受けるダメージの大きさを尺度として。

 「害の大きい表現」とはどのようなものかを考えるとき、私は「その表現が『個人』に与える危害の程度がどの程度の大きさか」という一点に絞って、害の大きさを判断すべきだと考えます。

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*2

例えば(実写の)児童ポルノは対象となった児童個人の人権に多大なダメージを与えますし、脅迫や恫喝なども同様に個人の人権を著しく侵害するのものです。

一方で、昨今話題となっているエロ・グロを含む表現は(上記の表現に比べれば)個人への危害は大きくないため、相対的に「表現の害」も小さいものと私は考えます。

また、この尺度を元に考えていくと、いわゆる「ヘイトスピーチ」や「(LGBT等)マイノリティへの差別的な発言」などについても、特定個人への直接的な危害は相対的に大きくなく、「(表現規制の対象を判別する上での)表現の害」は小さいものであると考えられます。

 上図でいうところの「右側」に行くほど「表現の害」は大きく規制の必然性も高い。「左側」に行くほど「表現の害」は小さく規制の必然性も低い。

この一軸によって「表現の害」を判断していくべきだというのが、私の考えです。

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Q:(ヘイトスピーチなど)間接的に個人への危害を及ぼす可能性のある表現については、その可能性を含めて規制の必然性を判断すべきではないか?

A:間接的な危害の可能性については、表現規制の根拠とすべきではないと考えます。

 特定の差別的な言論が放置され、そのような思想が拡大することによって、結果的に被差別者に危害が及ぶ(権利が侵害される)という現象は確かに存在します。

しかし、そのような間接的な危害の可能性を想定して予防的に表現規制を実施した場合、その運用は極めて恣意的になっていく危険性が非常に高いと私は考えます。

表現規制において最も重要なのは恣意的な運用を許さないことであり、その意味において直接性のない危害の可能性を規制の判断材料とすることは、厳に慎むべき行為であると思います。

 

 

以上、主に「表現規制の判断基準はどうあるべきか」という点に絞って、私見を述べさせていただきました。

最後に。本稿ではあえて「個別の表現について表現規制の対象とすべきか」については立ち入りませんでしたが、公平のために「私自身はかなり規制に消極的なスタンスであると自認している」ということだけは宣言しておきたいと思います。

*1:ゾーニングやレーティングは公権力によって行われることもありますが、ここでは省略しています

*2:プロットは私見によるざっくりとした一例です。実態とは乖離がある可能性があります。