バリアフリーは障害者の不利益になる

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この方は、障害者と健常者の負うコストが常に等しい社会を「真にバリアフリーな社会」と考えているようですが、実はこの「真にバリアフリーな社会」を目指すという方針それ自体が、障害者に不利益をもたらす誤った思想であることに、この方は気付いていないようです。

この勘違いは、この方に限らず世の中に広く浸透しており「バリアフリーの方向に進むことが無条件で障害者の利益に繋がる」と無邪気に考えている人は、少なくないように感じます。

では「真にバリアフリーな社会」の構築を目標にすることの、何が問題だというのでしょうか。

それは「真にバリアフリーな社会の構築」という目標が、コストの概念を完全に無視した、論理的に言って実現不可能な状態を目指しているからに他なりません。

このような言い方をすると、

「そんなことはない。そもそも障害者と健常者との間にわずかでも格差が存在すること自体が間違っているのだから、健常者がどれほど不便になろうとも、あらゆるコストを払って障害者と健常者の格差を完全に無くすことこそが、正しい社会の在り方だ」

などという反論をする人がいるかもしれません。

しかしこの考え方は、「障害者」という大雑把なカテゴリの中に、10人いれば10通りの「異なる事情を抱えた個人」が存在しているという事実を無視した机上の空論でしかありません。

そもそもこの問題は「障害者と健常者」の関係に限った話ではなく、世の中のあらゆる「マイノリティとマジョリティ」の関係に共通する普遍的なテーマです。

マイノリティの権利がマジョリティに対して制約されている状況を是正する行為――それが広い意味での「バリアフリー」の思想であると言えるでしょう。

けれど、現実問題として、世の中にある物事のうちマイノリティが生まれないものなど、何一つ存在しないと言っても過言ではありません。

例えば「男性と女性」。

例えば「右利きの人と左利きの人」。

「国籍」「人種」「容姿」「知能」「身体能力」「年齢」「健康状態」「文化」「宗教」「主義・主張」「職業」「アレルギーの有無」「経済力」「好きな食べ物」「ファッションセンス」…………

そして、これら無限に存在するマイノリティたちの権利を、手当たり次第無制限にマジョリティと同等まで高めていこうとすることは、特定のマイノリティだけを優遇する新たな格差へと繋がる危険な行為だといえるのです。

論理的に考えて、すべてのマイノリティの権利をマジョリティと同等まで高めることはできません。コストの問題がある限り、それは決して実現のしない幻想でしかあり得ません。

そして、コストの問題がある以上、私たちはどこかで妥協点を見つけ出す必要があるのです。

 

蛇足ではありますが、あえて具体的な話をしてみましょう。

コストの問題が存在しないのならば、世の中のあらゆる施設は、徹底してバリアフリー化を進めることが正解です。家賃2万5000円のアパートにも例外なくエレベーターの設置を義務化するべきですし、道路は路地の一本一本に至るまで漏れなく点字ブロックを設置して障害者が住みやすい社会を実現しなければならないでしょう。

飲食店はアレルギーを持った客のため、アレルゲンフリーのメニューを用意しておくべきです。うどん屋はいつ小麦アレルギーの客が来店しても良いように米粉で出来たうどんを準備しておくべきですし、アイスクリームショップは牛乳アレルギーの人のために豆乳アイスを常備しておかなかればならないでしょう。

ステーキハウスはベジタリアンのために豆腐ハンバーグを用意しなければなりません。寿司屋は生魚が苦手な人のために、リクエストがあればすべての寿司を加熱調理できるよう設備を整えておく必要があるでしょう。

性差別に関しても徹底的に改善を行うことが正しい選択です。いわゆる性的マイノリティの人たちのため、あらゆる公共施設には第3の性を自認する人専用のトイレを設置するべきです。さらに第4の性、第5の性を自認する人のために、それぞれ専用のトイレをどこまでも増設していくのが正解でしょう。

国籍によって不平等な扱いをすることは厳に戒められるべきです。外国人に向けた館内アナウンスは英語や中国語、韓国語だけではなく、タガログ語シンハラ語、ンドンガ語などでも行われなければなりません。外国人が訪れる可能性のあるすべての施設は、あらゆる言語について平等に通訳の人員を手配しておかなければならないでしょう。

 

……言うまでもなく、これらのすべてを実行できるようなリソースは、世界のどこを探しても存在しません。

ですが、この現実を考慮せず、「差別の撤廃」「バリアフリーの実現」を金科玉条――決して否定してはいけない無条件の正義であるかのように思い込んでいる人が、今の世の中には大勢いるように思われます。

繰り返しになりますが、これは大変危険で有害な思想です。

マイノリティは100%の権利を主張するべきではありません。またマジョリティも、マイノリティに100%の権利を与えるよう主張すべきではありません。

10人のマイノリティの便益をマジョリティと同等にするためには、その他90人のマジョリティの便益が損なわれる可能性を無視してはいけません。コストという概念が介在する以上、そこにはトレードオフの関係が成立するケースがほとんどだからです。

そして何よりも重要なのは、この便益が損なわれる可能性のある90人のマジョリティも、局面が変わればそこでは10人のマイノリティの側に立つことがあるという点、そして、社会全体でみれば、すべての局面において支払われるコストの出どころ(財布)は常にひとつであるという点です。

 

例えば、今回話題になっている車椅子への対応について考えてみましょう。

航空会社が車椅子の利用客に対応した設備を導入するにはコストが掛かります。今回はストレッチャーを導入したという話でしたが、これは上記で言うところの「真にバリアフリー」な対応であるとは言えません。本当に完全な形でバリアフリーを実現しようとするならば、利用客が車椅子であることを何も告げなくても、一秒のロスもなく、また一切のストレスなく、一般の乗客に混じってそのまま搭乗ができるよう、ボーディングブリッジ自体を整備するか、飛行機自体を改造するか、具体的な方策はともかく、非常に大掛かりな対策を行う必要があるはずです。

この対応に必要となるコストは誰が負担するのか。

当然、一義的には航空会社あるいは空港になるはずですが、それは結局、利用料の形で航空機の利用者へと還元されます。さらに、利用者の負担が高まったということは、利用者が普段の消費に用いることのできるお金が減少することに繋がりますから、その分、スーパーやデパートなどのお店の売上は減少することになります。こうして連鎖が続いていくことによって、バリアフリーのために用いられたコストは最終的に、社会全体のコストとして、すべての人間の上に伸し掛かっていくことになるのです。

 

問題なのは、まさにこの点です。

私たちの社会が負担することのできるコストには上限が存在します。企業はその活動によって世の中に新たな価値――剰余を生み出しますが、社会が誰かから偏った収奪を行うことなく負担することができるコストは、この剰余を上回ることができません。

ですから「車椅子利用者」という特定のマイノリティのためにコストを費やすことは、他のマイノリティ――例えば視覚障害者や聴覚障害者のために用いることのできるコストを減少させることと同義であると言えるのです。

これは非常に不合理な話です。なぜなら、世の中の様々な施策のほとんどは「収穫逓減」――つまり、完璧に向かっていくにつれて、費用対効果がどんどんと悪くなっていくという特性を持っているからです。

「テストで50点の子供が80点を取るのは簡単だが、80点の子供が90点を取るのは難しい」

これが収穫逓減の原則です。

この前提を考慮に入れたとき、マイノリティがマジョリティと全く同等の権利を主張することの傲慢さが理解できるのではないでしょうか。

あるマイノリティの権利が改善されるとき、他のマイノリティの権利は改善の機会を喪失していっているのです。にも関わらず、費用対効果を考えず、無制限に完璧に対等な権利を主張するのは、独善以外の何物でもありません。

「50点を80点にしろ」というのと、「90点を100点にしろ」というのは、本質的に全く異なる主張であるであるということを私たちは理解すべきです。

当たり前のことですが、現状、マイノリティの権利は不当に制約されています。方向として、よりマイノリティの権利改善に社会が邁進していかなければいかないという点については、疑う余地のない正論であると思われます。

しかし、社会は決してマイノリティに100点の対応を目指すべきではありません。

落とし所がどこなのか。80点なのか90点なのか。それは軽々に語れる問題ではありません。ただひとつ言えることは、問答無用で100点を目指すことが正義であるという主張に関しては、明らかに他のマイノリティの権利を侵害する誤ったメッセージであるということです。

今回の航空機の一件は、はたして、どこが社会全体にとって適切な落とし所なのかという問題提起を行ったという意味で、非常に有意義な出来事であったと言えるでしょう。

社会はこの「落とし所」について、もっともっと議論を深め、コンセンサスを高めていく必要があるはずです。

「無条件に100点を目指すことが正義である」と短絡して思考停止に陥ったコメントがそれなりの支持を集めている現状を見る限り、世のバリアフリーに対する理解は決して高いものとは思えません。

今回のネット上の一連の議論の成り行きは、より良い社会の実現のために、まずは、現実に即した議論を行える土壌をつくることから始める必要があるのかもしれないと感じた苦い出来事でした。