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人が「共感」できる範囲は人によって違う ―学校でハムスターを飼うべきか議論から―

togetter.com

この息子さんは感性、感受性がとても優れているのでしょう。

自分たちが生き物を「飼う」ことによって、その生き物が幸福になるのか、不幸になるのかを、生き物の立場に立って考えることができるというのは、つまり、自分以外の存在に「共感する能力が高い」ということです。

人間を含め、生物というのは元来、自分に近い存在には強く共感できる一方で、自分よりも離れた立場の存在には共感しにくいようにできています。

例えば同じ人間の中でも、自分自身の命は他の誰の命よりも大切に感じるのが普通で、次に家族、親戚や友人、知人、同じ地域やコミュニティの人、同じ人種や国籍の人、といった風に、自分から遠ざかるほど、その存在はどんどんと軽くなっていきます。

これは生物学的な分類においても同様で、通常、人間が一番大切に感じることのできるのは、やはり同じ人間。次に哺乳類、その他の動物、そして魚類、植物といった順番に共感の度合いが下がっていくのが普通でしょう。

もちろん個々の事例で、これらの順位が逆転することはいくらでもあります。

地球の裏側に住んでいる外国人よりも、毎日一緒に暮らしているペットの方が大切だとか、そういったケースは当然あり得ますし、場合によっては、遠くの人命よりも、近くの無機物(大切な記念品など)の方に、より強い共感を覚える場合さえあるでしょう。

つまるところ、人間の共感とか思いやりなどという感情は、「自分を取り巻く世界」が壊れて欲しくないというエゴイズムの変形でしかないということです。

大切なのは、この「自分を取り巻く世界」の範囲が、人によって異なっているということで、ごくごく身近な自分の周囲だけにしか強い共感を抱けない人もいれば、ありとあらゆるものに共感して同情してしまう、とても感性豊かな人もいるということです。

冒頭の事例、この息子さんの感性は他のクラスメイトの子たちよりも、きっとかなり豊かなのでしょう。他の子供たちはこの息子さんほどハムスターへの共感が強くないために、意識の乖離が生じています。

動物を飼うという行為は、基本的に動物を愛玩その他の目的のため道具として扱う人間の一方的なエゴイズムの発露ですから、そこにはある種の欺瞞が存在します。

飼い主は動物に対して「共感」を持ってはいますが、その一方で、両者の関係が構造的に同等ではない(飼い主が一方的に構築した関係である)点については、目をつぶります。この点に共感し、両者の関係を対等にしたいと望めば、そもそも動物を飼うという行為自体が成立しなくなるので止むを得ません。

そして、そんな欺瞞行為を成立させるためには、いくつかの矛盾を飲み込む必要があります。

  • 「共感」して大切に思っている動物を、ケージに閉じ込めて自由を奪うという矛盾
  • 「共感」して大切に思っている動物を、飼い主の都合で冷暖房なしの教室に置き去りにする矛盾

感性、感受性は人それぞれですから、これらの矛盾から上手に目を背け、ストレスなく欺瞞の関係を受け入れることのできる人間も大勢います。

しかし、本当に感性の豊かな人達の中は、これらの矛盾を無視できず、動物を飼うという行為自体に抵抗を覚える人もいるはずです。

感性の違いは多分に能力の違いのようなものであり、そこに「優劣」はあっても「善悪」は存在しないと思います。

ただ、私たち人間は社会的な生き物ですから、感性が人それぞれに異なっていようとも、どこかで線を引かなければならない場合も生まれます(異なる感性の人同士が住み分けできる場合もありますが、そうではない場合もあります)。

つまり、もっとも平均(あるいは中央)的な感性の人に合わせて社会の規範を作り、それ以外の人には妥協してもらう必要があるということです。

では今回の問題について、私たちの社会が定めたラインはというと「学校での動物飼育を許容する」という、この息子さんの感性からすると妥協を強いられる位置に引かれていると考えるのが常識的でしょう。

もちろん、このラインは不動のものではなく、社会全体の認識の変化によって如何ようにも変えることのできるものです。

そういう意味で、今回の息子さんの行動は決して無駄ではなかったと思いますし、善悪二元論で片付けることのできない微妙な問題だからこそ、こうしてじっくりと対話の機会を持てたことは、結果はどうあれ良いことだったと評価すべきではないかと思います。

本件の決着に関して、個人的には(私個人の「感性」に照らし合わせれば)また別の意見も無い訳ではないのですが、ここでは何よりも、この問題が個々人の感性の相違という、人間社会が抱える根源的な課題とダイレクトに繋がっている話だということを、まずリマインドしておきたいと思いましたので、決定の是非について直接触れるのは、また別の機会にしたいと思います。