バリアフリーは障害者の不利益になる

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この方は、障害者と健常者の負うコストが常に等しい社会を「真にバリアフリーな社会」と考えているようですが、実はこの「真にバリアフリーな社会」を目指すという方針それ自体が、障害者に不利益をもたらす誤った思想であることに、この方は気付いていないようです。

この勘違いは、この方に限らず世の中に広く浸透しており「バリアフリーの方向に進むことが無条件で障害者の利益に繋がる」と無邪気に考えている人は、少なくないように感じます。

では「真にバリアフリーな社会」の構築を目標にすることの、何が問題だというのでしょうか。

それは「真にバリアフリーな社会の構築」という目標が、コストの概念を完全に無視した、論理的に言って実現不可能な状態を目指しているからに他なりません。

このような言い方をすると、

「そんなことはない。そもそも障害者と健常者との間にわずかでも格差が存在すること自体が間違っているのだから、健常者がどれほど不便になろうとも、あらゆるコストを払って障害者と健常者の格差を完全に無くすことこそが、正しい社会の在り方だ」

などという反論をする人がいるかもしれません。

しかしこの考え方は、「障害者」という大雑把なカテゴリの中に、10人いれば10通りの「異なる事情を抱えた個人」が存在しているという事実を無視した机上の空論でしかありません。

そもそもこの問題は「障害者と健常者」の関係に限った話ではなく、世の中のあらゆる「マイノリティとマジョリティ」の関係に共通する普遍的なテーマです。

マイノリティの権利がマジョリティに対して制約されている状況を是正する行為――それが広い意味での「バリアフリー」の思想であると言えるでしょう。

けれど、現実問題として、世の中にある物事のうちマイノリティが生まれないものなど、何一つ存在しないと言っても過言ではありません。

例えば「男性と女性」。

例えば「右利きの人と左利きの人」。

「国籍」「人種」「容姿」「知能」「身体能力」「年齢」「健康状態」「文化」「宗教」「主義・主張」「職業」「アレルギーの有無」「経済力」「好きな食べ物」「ファッションセンス」…………

そして、これら無限に存在するマイノリティたちの権利を、手当たり次第無制限にマジョリティと同等まで高めていこうとすることは、特定のマイノリティだけを優遇する新たな格差へと繋がる危険な行為だといえるのです。

論理的に考えて、すべてのマイノリティの権利をマジョリティと同等まで高めることはできません。コストの問題がある限り、それは決して実現のしない幻想でしかあり得ません。

そして、コストの問題がある以上、私たちはどこかで妥協点を見つけ出す必要があるのです。

 

蛇足ではありますが、あえて具体的な話をしてみましょう。

コストの問題が存在しないのならば、世の中のあらゆる施設は、徹底してバリアフリー化を進めることが正解です。家賃2万5000円のアパートにも例外なくエレベーターの設置を義務化するべきですし、道路は路地の一本一本に至るまで漏れなく点字ブロックを設置して障害者が住みやすい社会を実現しなければならないでしょう。

飲食店はアレルギーを持った客のため、アレルゲンフリーのメニューを用意しておくべきです。うどん屋はいつ小麦アレルギーの客が来店しても良いように米粉で出来たうどんを準備しておくべきですし、アイスクリームショップは牛乳アレルギーの人のために豆乳アイスを常備しておかなかればならないでしょう。

ステーキハウスはベジタリアンのために豆腐ハンバーグを用意しなければなりません。寿司屋は生魚が苦手な人のために、リクエストがあればすべての寿司を加熱調理できるよう設備を整えておく必要があるでしょう。

性差別に関しても徹底的に改善を行うことが正しい選択です。いわゆる性的マイノリティの人たちのため、あらゆる公共施設には第3の性を自認する人専用のトイレを設置するべきです。さらに第4の性、第5の性を自認する人のために、それぞれ専用のトイレをどこまでも増設していくのが正解でしょう。

国籍によって不平等な扱いをすることは厳に戒められるべきです。外国人に向けた館内アナウンスは英語や中国語、韓国語だけではなく、タガログ語シンハラ語、ンドンガ語などでも行われなければなりません。外国人が訪れる可能性のあるすべての施設は、あらゆる言語について平等に通訳の人員を手配しておかなければならないでしょう。

 

……言うまでもなく、これらのすべてを実行できるようなリソースは、世界のどこを探しても存在しません。

ですが、この現実を考慮せず、「差別の撤廃」「バリアフリーの実現」を金科玉条――決して否定してはいけない無条件の正義であるかのように思い込んでいる人が、今の世の中には大勢いるように思われます。

繰り返しになりますが、これは大変危険で有害な思想です。

マイノリティは100%の権利を主張するべきではありません。またマジョリティも、マイノリティに100%の権利を与えるよう主張すべきではありません。

10人のマイノリティの便益をマジョリティと同等にするためには、その他90人のマジョリティの便益が損なわれる可能性を無視してはいけません。コストという概念が介在する以上、そこにはトレードオフの関係が成立するケースがほとんどだからです。

そして何よりも重要なのは、この便益が損なわれる可能性のある90人のマジョリティも、局面が変わればそこでは10人のマイノリティの側に立つことがあるという点、そして、社会全体でみれば、すべての局面において支払われるコストの出どころ(財布)は常にひとつであるという点です。

 

例えば、今回話題になっている車椅子への対応について考えてみましょう。

航空会社が車椅子の利用客に対応した設備を導入するにはコストが掛かります。今回はストレッチャーを導入したという話でしたが、これは上記で言うところの「真にバリアフリー」な対応であるとは言えません。本当に完全な形でバリアフリーを実現しようとするならば、利用客が車椅子であることを何も告げなくても、一秒のロスもなく、また一切のストレスなく、一般の乗客に混じってそのまま搭乗ができるよう、ボーディングブリッジ自体を整備するか、飛行機自体を改造するか、具体的な方策はともかく、非常に大掛かりな対策を行う必要があるはずです。

この対応に必要となるコストは誰が負担するのか。

当然、一義的には航空会社あるいは空港になるはずですが、それは結局、利用料の形で航空機の利用者へと還元されます。さらに、利用者の負担が高まったということは、利用者が普段の消費に用いることのできるお金が減少することに繋がりますから、その分、スーパーやデパートなどのお店の売上は減少することになります。こうして連鎖が続いていくことによって、バリアフリーのために用いられたコストは最終的に、社会全体のコストとして、すべての人間の上に伸し掛かっていくことになるのです。

 

問題なのは、まさにこの点です。

私たちの社会が負担することのできるコストには上限が存在します。企業はその活動によって世の中に新たな価値――剰余を生み出しますが、社会が誰かから偏った収奪を行うことなく負担することができるコストは、この剰余を上回ることができません。

ですから「車椅子利用者」という特定のマイノリティのためにコストを費やすことは、他のマイノリティ――例えば視覚障害者や聴覚障害者のために用いることのできるコストを減少させることと同義であると言えるのです。

これは非常に不合理な話です。なぜなら、世の中の様々な施策のほとんどは「収穫逓減」――つまり、完璧に向かっていくにつれて、費用対効果がどんどんと悪くなっていくという特性を持っているからです。

「テストで50点の子供が80点を取るのは簡単だが、80点の子供が90点を取るのは難しい」

これが収穫逓減の原則です。

この前提を考慮に入れたとき、マイノリティがマジョリティと全く同等の権利を主張することの傲慢さが理解できるのではないでしょうか。

あるマイノリティの権利が改善されるとき、他のマイノリティの権利は改善の機会を喪失していっているのです。にも関わらず、費用対効果を考えず、無制限に完璧に対等な権利を主張するのは、独善以外の何物でもありません。

「50点を80点にしろ」というのと、「90点を100点にしろ」というのは、本質的に全く異なる主張であるであるということを私たちは理解すべきです。

当たり前のことですが、現状、マイノリティの権利は不当に制約されています。方向として、よりマイノリティの権利改善に社会が邁進していかなければいかないという点については、疑う余地のない正論であると思われます。

しかし、社会は決してマイノリティに100点の対応を目指すべきではありません。

落とし所がどこなのか。80点なのか90点なのか。それは軽々に語れる問題ではありません。ただひとつ言えることは、問答無用で100点を目指すことが正義であるという主張に関しては、明らかに他のマイノリティの権利を侵害する誤ったメッセージであるということです。

今回の航空機の一件は、はたして、どこが社会全体にとって適切な落とし所なのかという問題提起を行ったという意味で、非常に有意義な出来事であったと言えるでしょう。

社会はこの「落とし所」について、もっともっと議論を深め、コンセンサスを高めていく必要があるはずです。

「無条件に100点を目指すことが正義である」と短絡して思考停止に陥ったコメントがそれなりの支持を集めている現状を見る限り、世のバリアフリーに対する理解は決して高いものとは思えません。

今回のネット上の一連の議論の成り行きは、より良い社会の実現のために、まずは、現実に即した議論を行える土壌をつくることから始める必要があるのかもしれないと感じた苦い出来事でした。

アパート住まいで簡易宅配BOXを設置した話

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最近話題の宅配業者の負担緩和。再配達を減らそうという流れの中で、よく「宅配BOXがオススメだよ」という意見を目にしますので、参考までに個人的な体験談をご紹介します。

製品

私が使っているのはこちらの製品。

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お値段は確か4000~5000円くらい。

材質は「ターポリン素材」使用とのことで、運動会なんかで見るテントの生地みたいな感じです。

物件

住んでいるのはオートロック(セキュリティ付きのエントランス)などない、安アパートの一室。

集合郵便受けではなく、各戸のドアにドアポストが設置されているタイプの住宅です。

設置

設置したのは2年ほど前。

ドアポストの穴から固定用のベルトを引き込み、ドアにぶら下げる形で設置しました。

ベルトと同様に盗難防止用のワイヤーをドアの内側に引き込み固定ました。

一応ドアの外にも屋根はあるものの基本的に戸外で吹きさらしのため、外観は多少うすら汚れてきていますがそこはご愛嬌。強度的には劣化など感じられません。

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ドアの内側はこんな感じ。

郵便受け固定用の金具を、バンドとセキュリティワイヤーの固定に流用しました。バンドは金具の隙間を直接通そうとしたところ厚すぎたため、その場にあった麻ひもで中継してあります。

適当もいいところ。

見た目にこだわる人は、工夫が必要かもしれません。

(ちなみに郵便受けは確認を忘れがちなので、普段から外してあります。届いた手紙はそのまま玄関に落ちて散らばる(!)仕組み)

事前に不安だったこと → 実際には

大きい荷物が入らないのではないか?

袋型のBOXは下の方がすぼんだ形をしているため、大きさに多少不安がありましたが、実際にはそこそこ大きな荷物にも対応可能です。

Amazonで本を4~5冊まとめて注文するくらいなら、大抵の場合、余裕で入ると思います。

無論、入る大きさには限界があるため、ある程度以上の大きさの場合には再配達をお願いすることになりますが、その場合、不在票に「大きすぎて宅配BOXには入らないため持ち帰りました」などと経緯を記載してくれることがほとんどです。

ご近所の邪魔になるのではないか?

わずかではありますが、アパートの通路にせり出す形になりますので、他の住人からクレームの入る可能性があることは否めません。

私のアパートの場合は、幸い通路のスペース自体には余裕がありましたが、それでも完全な箱型のBOX(下記リンクのものなど)を通路に直置きするのは躊躇われたため、ドアにぶら下げられる現在のタイプをチョイスしました。

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(↑ 容量的には箱型も魅力的ですが、アパートの場合には少々使いづらい)

宅配業者がきちんとBOXを使ってくれないのではないか

せっかく宅配BOXを設置しても、配送員の人たちがBOXを使ってくれなければ意味がありません。

直接配送員の方に言えば対応してもらえるだろうとは思ったのですが、日本郵政やヤマト、佐川、などなどと複数の業者がやってくる上、担当者も入れ替わりが激しいようで個別にアナウンスするのはとても面倒です。

当初はAmazonの配送先住所に「宅配BOXを使ってください」などと追記することも考えましたが、とりあえず宅配BOX自体に記載されている「宅配業者に向けた使用方法の説明」が上手く伝わるのを信じ、不親切かとは思いましたが、特段の対策もせずいきなりBOXをドカンと設置して、様子を見ることにしました。

あくまでも私個人の場合ではありますが、この2年間、どの業者も(荷物が大きすぎて入り切らない場合や、別の荷物でBOXが埋まっている場合を除いて)ほぼ100%の確率で、宅配BOXに荷物を利用してくれるという結果になりました。

在宅時、荷物を直接受け取った際などに「ご不在のときは、これ(宅配BOX)に入れてもいいんですかー?」などと訊かれたことが5~6回はありますので、配送員さんもできればきちんと通知しておいて欲しいんだろうなーと申し訳なく思っていますが、特に何か連絡などをしなくとも、最低限「不在時には宅配BOXを使って欲しい」というこちらの意図は伝わると考えて良いようです。

在宅時もチャイムを押さず、宅配BOXに荷物を入れられてしまうのではないか

2~3回ほどではありますが、荷物が届くのを待っていたら、いつの間にか宅配BOXに入っていたということがありました。

多分、私がチャイムを聴き逃したのだと思います。

それ以外は常にチャイムを押してくれています。配送員さんにとっても、わざわざ自分でスタンプ印を押して、宅配BOXのファスナーを閉めて、南京錠を付けるというのは避けられるなら避けたい手間でしょうから、まずは在宅を確認する方が自然だという風にも思えます。

また副次的な効果ではありますが、チャイムが鳴ったとき、ちょうどトイレにいて応対することができず、慌てて飛び出したときにはもう宅配BOXに荷物が入っていたということもありました。

私の便意のせいで配送員さんには余計な手間を取らせてしまいましたが、再配達をお願いするのに比べれば、お互いにハッピーな結果であったとお許しいただきたく思います。

誰でも触れる場所に印鑑を置いておくのは危険ではないか

宅配BOXの中にはポケットがあり、ここに「スタンプ印」と開いた状態の「南京錠」を入れておく仕組みになっています。

配送員さんには荷物をBOXの中に入れたあと、自分でこのスタンプ印を受取欄に押印し、ファスナーを閉じて南京錠で施錠してもらいます。

つまり、荷物が入っていない宅配BOXの中には、誰でも触ることのできるスタンプ印が置かれている訳で、これはまあ、あまり気持ちの良い状態であるとはいえません。

正直なところ、この点に関しては明確に安全だとか危険だとか断言することはできませんが、とりあえず、宅配BOXの中に入れるスタンプ印は宅配BOX専用の印鑑として、他の用途には決して利用しないということだけは徹底する必要があると思います。(逆に言うと、それさえ守れば問題ないと「個人的には」判断しています。スタンプ印自体は誰でも100円程で買えるものですから、重要書類の印影と一致しない限り、設置した印鑑を悪用するメリットはないと考えています)

使ってみて気付いた問題点

初めの頃、南京錠を掛けてくれない業者がいた

宅配BOXを設置した当初、稀にですが、荷物を入れた状態でファスナー閉めてくれない配送員さん、ファスナーは閉めてくれても南京錠を掛けてくれない配送員さんに遭遇したことが何度かありました。

幸い、荷物に問題はありませんでしたが、さすがに防犯上不安があるため、同じような状態が続くようならば、お願いの電話を掛けようかとも思っていましたが、しばらくするうちに、そういったケースはなくなりました。(配送員さんの慣れの問題だったのかもしれません)

封書やダイレクトメールまで宅配BOXに入れられてしまう

本来、宅配BOXには荷物だけを入れて欲しいのですが、ダイレクトメールやメール便の類など、できればドアポストに入れて欲しいものまで、宅配BOXに入れられていることが何度かありました。

日本郵政を始めとした大手の宅配業者を通じて送られてくる手紙や請求書などについては、配送員さんも勝手が分かっているため、このようなトラブルが発生することもないのですが、大型の荷物を扱わないポスティング業者さんなどにとっては、宅配BOXが目立つためか、ドアポストに目が行かないことがあるようです。

もっとも、ポスティング業者さんは当然のことながら南京錠など付けていったりしないため、本命の荷物とバッティングして宅配BOXが埋まってしまうということはまずありません。

感想

以上、実際に宅配BOXを設置してみた私の個人的な気付きを列記してみました。

満足度としては95点くらい。些末な不満はあるものの、だからといって宅配BOXがない生活は考えられないと断言してもいいくらいに便利です。

特に一人暮らしの方は、通販に頼る機会が多い一方で、受取りに苦労することが多いと思いますので、条件さえ合えば、宅配BOXを設置するメリットは大であるといえるのではないでしょうか。

宅配BOX設置の際の注意点

宅配BOXは色々と便利だというお話をしてきましたが、注意した方が良いと思う点もいくつかありますので触れておきます。

盗難リスク

特に私が設置した袋型の簡易タイプの宅配BOXの場合、極端な話、袋を切り裂いてしまえば中身の荷物は容易に盗むことができてしまいます。もっとも、BOXを破壊して盗まれるリスクについては簡易BOX(マンション等の本格的な備付のもの以外)を使う限り、多かれ少なかれ存在しているものと思われますので、例え硬質タイプのBOXを選んだとしてもまったく考慮しない訳にはいかないでしょう。

また、前述のように、配送員さんが南京錠を付け忘れるケースも100%ゼロとはいえないため、リスクについては事前にきちんと検討しておくことが必要です。

リスク管理の方法としては

  • 治安を考慮する
  • 設置場所の見通しを考慮する
  • 高額品の利用を避ける

などが考えられます。

治安の悪い地域に住んでいる場合や、宅配BOXが道路などから丸見えになってしまう場合は、宅配BOXの利用は避けた方が賢明かもしれません。

また、高額品については、そもそも宅配BOXの利用を避けることも必要でしょう。通販の場合には、宛名に「宅配BOX不可」の記載を入れるか、いっそのこと、一時的に宅配BOXを撤去してしまうなどの対策が有効だと思います。

また、私が使用している袋型の簡易BOXは「荷物が入っているかいないか、外観を見れば一発で分かってしまう」という欠点(?)があります

幸い、私の住んでいるアパートは治安もそこそこ良く、また見通しも効かない好条件だったために袋型を使用することができましたが、これらの条件が満たされていない場合には、袋型の簡易BOXの使用については一考する必要があるかもしれません。

複数配達の調整

不在中に複数回の配達があった場合、当然のことながら、2件目以降の荷物については鍵の掛かった宅配BOXに入れることができず、持ち帰り再配達となってしまいます。Amazonからの配送については、お急ぎ便を使わない限り、別口の注文であっても同時に配達されるケースが多いように思われますが、別の通販業者を合わせて利用した場合など、配送が重なってしまうこともあり得ます。

極力、同日に複数の配送が重ならないよう心がけることで再配達を減らしていくと、より幸せになれるのではないかと思います。

最後に

宅配BOXはとても便利ですし、再配達が少なくなる分、宅配業者の負担軽減にも繋がるといわれています。

しかし一方で、配送員の方に直接荷物を受け取る場合には不要な押印と施錠の手間をお掛けしていることも事実です。

直接、配送員の方にお話を伺ったわけではないので、対面して荷物を受け取るのと宅配BOXに入れてもらうのと、どちらが楽なのか(望ましいのか)本当のところはよく分かりませんが、いずれにしても宅配BOXの利用を当然のことと考えるのではなく、配送員の方のご協力に対する感謝の心を忘れないようにしたいものです。

「動物虐待はダメ」という偽善者たち

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「貧乏人は、十分なケアをすることができず動物のためにならないので、ペットを飼ってはいけない」という意見。

元記事のコメントやブコメを見ていると、どうも正論だと賛同する人が多数派のようで、すごく違和感を覚えました。

いえ、別に賛成意見がたくさん寄せられること自体はいいんです。

ただ、いつもネットで支持されている「とある定番のロジック」と明らかに矛盾する主張が同じネット上で普通に大勢を占めていることを、とても不思議に感じたということです。

皆さんも、今までに目にしたことがありませんか?

「動物愛護を訴えるベジタリアンは偽善者だ」という主張。

ネットの人たちって「動物の命を奪って食べるなんて可哀想」と言うと、それは偽善だとか、植物だって生きているのにとか言って、一斉にツッコんできますよね。

でも、その論法、今回のケースでそっくりそのままお返しできると思うんです。

「動物を虐待(ネグレクト)するなんて可哀想」 → 「それは偽善です」

ぶっちゃけた話、人間社会において「動物」ってのは、基本「モノ」扱いの存在です。

個人が金を出して所有権を得たペットに対して、殴る蹴るの暴行を加えようが、ネグレクトで衰弱死させようが、それは個人の自由でしょう。

あらかじめ注意喚起しておきますが、日本には、動物愛護法という法律があって、動物に殴る蹴るの暴行を加えたり衰弱死させたりすると犯罪に問われる可能性があります。

私は法治国家の一員として、法律の遵守はとても重要な事柄だと考えていますから、たとえ悪法であってもそれを犯すことを推奨するつもりは毛頭ありません。

ただ、法規範は置くとして、飼い主がペットをどのように扱うかについては、本来、個人の自由であって他人が口出しすべき問題ではないと思うのです。

動物愛護のベジタリアンに関する議論の中でよく出てくる意見のひとつに「ベジタリアンになるのは勝手。だが他人にまで自分のポリシーを押し付けるな」というものがあります。

これも、再び今回のケースに流用してみましょう。

「動物虐待をしないのは勝手。だが他人にまでそれを押し付けるな」

どうでしょう? ここまで言えれば、ベジタリアンに対する主張との整合性が取れていると思いませんか?

 

そもそも、一方で食べるために動物を殺すことは認めておきながら、他方で虐待はダメだというのは、理屈に合わない主張です。

これらはどちらも人間のエゴのために動物を犠牲にしているという点で、まったく同質の行為です。

「食べる」 → 「人間の肉体的な欲求を満たすための行為」

「虐待する」 → 「人間の精神的な欲求を満たすための行為」

さらに言うならば、

「ペットにする」 → 「人間の精神的な欲求を満たすための行為」

です。

そして、いずれの場合も、人間の勝手な都合で動物は犠牲になっています。

ペットは動物を犠牲にしていないと思っている人。

野生動物が勝手に軒先に巣を作ったのでもない限り、少なくともキッカケにおいて動物は強制的にペットにさせられているのです。

拉致監禁のうえ洗脳した相手を後からどれほど高待遇で饗したところで、相手の自由を侵害していることに変わりはありません。

 

私は別に「動物虐待を解禁にしろ」と主張するつもりはありません。

個人的には、動物愛護法は個人の権利を不当に侵害している悪法であると考えていますが、大多数の人間の感情が動物虐待への法による抑制を支持している以上、これを速やかに撤廃することは難しいであろうと諦めているというのが正直なところです。

動物愛護法がある限り「動物を虐待することに至上の快感を覚えるマイノリティ」の権利は明らかに侵害されている訳ですが、LGBTなどへの配慮がようやく浸透し始めてきたばかりの人類にそこまでの要求をするのは、さすがに性急なのかも知れません。

(幸いにして、私は動物が悶え苦しんでいる姿よりも、ノビノビと遊び回っている姿の方が好きなので、上記マイノリティには申し訳ありませんが、この件に関して他人事以上のスタンスでコミットメントする意欲はありません)

ただ、「食べる」のはいいけれど「虐待」はダメだという人は、その主張が矛盾を孕んでいるものだということと、他人の権利を制約するものだということについては、できれば自覚的であって欲しいと思うのです。

ネットリンチと「外野うるさい案件」

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このニュースに限ったことではありませんが、昨今のネットでは「確かに問題はあるけれど、大騒ぎするほどではない案件」というのが、必要以上に大きな話題として取り沙汰されるケースが多くあるように感じます。

いわゆる「炎上」や「ネットリンチ」などにも共通する話ではありますが、こうした「騒ぎ過ぎ」の状況は、場合によっては問題を逆に大きくしてしまったり、法的なスキームに拠らない私刑に繋がってしまったりと、マイナスの効果を生むことも少なくありません。(もっとも私もついつい無責任な発言を書き込むことがありますが。自戒を込めて、です)

今後、このような「あえて外野が口を挟まなくても(あるいは挟まない方が)問題が解決するのではないか」「まずは当事者に解決を任せて静観した方が良いのではないか」という微妙な案件を、カウンターの意味を込めて「外野うるさい案件」と名付け、ブコメでタグ付けをしていきたいと思います。

趣旨に賛同してくださる方は、ぜひ「外野うるさい案件」をご利用ください。

既婚者は家族を愛し、独身者は人類を愛する

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「社会貢献」という意見がほとんど見当たらなくて驚いています。

自分以外の誰かのために生きる。それが素晴らしい価値観であることは、多くの人が共感しているはずです。

だからこそ、「自分以外の誰か(配偶者や子供)のために生きることができない独身の人は何が生きがいなの?」という問いに対して、上から目線のマウンティングであると反感を覚えるコメントが多発したのでしょう。

しかし、独身であっても自分以外の誰かのために生きることは可能です。

社会のため、あるいは人類のために役立つ成果を残すこと。

それを人生の目的とするのは、家族のために生きるのと変わらないくらい立派な目的のはずです。

立派すぎて、気恥ずかしい。あるいは偽善的に感じられる。……そんな気持ちがあるのかもしれません。

しかし「家族のために生きること」と「社会のために生きること」に本質的な違いはありません。

相手のために何かをしてあげること。それが自分の満足に繋がる。

「家族愛」と「博愛」は、対象がちょっと違うだけで、中身はどちらも一緒のものだといっていいはずです。

独身だからといってディスられた気分になるのではなく、「お前は家族を愛するのが生きがいかもしれないが、オレは人類全体を愛するのが生きがいだ!」と力いっぱい宣言すれば、それで良いのではないでしょうか。

人が「共感」できる範囲は人によって違う ―学校でハムスターを飼うべきか議論から―

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この息子さんは感性、感受性がとても優れているのでしょう。

自分たちが生き物を「飼う」ことによって、その生き物が幸福になるのか、不幸になるのかを、生き物の立場に立って考えることができるというのは、つまり、自分以外の存在に「共感する能力が高い」ということです。

人間を含め、生物というのは元来、自分に近い存在には強く共感できる一方で、自分よりも離れた立場の存在には共感しにくいようにできています。

例えば同じ人間の中でも、自分自身の命は他の誰の命よりも大切に感じるのが普通で、次に家族、親戚や友人、知人、同じ地域やコミュニティの人、同じ人種や国籍の人、といった風に、自分から遠ざかるほど、その存在はどんどんと軽くなっていきます。

これは生物学的な分類においても同様で、通常、人間が一番大切に感じることのできるのは、やはり同じ人間。次に哺乳類、その他の動物、そして魚類、植物といった順番に共感の度合いが下がっていくのが普通でしょう。

もちろん個々の事例で、これらの順位が逆転することはいくらでもあります。

地球の裏側に住んでいる外国人よりも、毎日一緒に暮らしているペットの方が大切だとか、そういったケースは当然あり得ますし、場合によっては、遠くの人命よりも、近くの無機物(大切な記念品など)の方に、より強い共感を覚える場合さえあるでしょう。

つまるところ、人間の共感とか思いやりなどという感情は、「自分を取り巻く世界」が壊れて欲しくないというエゴイズムの変形でしかないということです。

大切なのは、この「自分を取り巻く世界」の範囲が、人によって異なっているということで、ごくごく身近な自分の周囲だけにしか強い共感を抱けない人もいれば、ありとあらゆるものに共感して同情してしまう、とても感性豊かな人もいるということです。

冒頭の事例、この息子さんの感性は他のクラスメイトの子たちよりも、きっとかなり豊かなのでしょう。他の子供たちはこの息子さんほどハムスターへの共感が強くないために、意識の乖離が生じています。

動物を飼うという行為は、基本的に動物を愛玩その他の目的のため道具として扱う人間の一方的なエゴイズムの発露ですから、そこにはある種の欺瞞が存在します。

飼い主は動物に対して「共感」を持ってはいますが、その一方で、両者の関係が構造的に同等ではない(飼い主が一方的に構築した関係である)点については、目をつぶります。この点に共感し、両者の関係を対等にしたいと望めば、そもそも動物を飼うという行為自体が成立しなくなるので止むを得ません。

そして、そんな欺瞞行為を成立させるためには、いくつかの矛盾を飲み込む必要があります。

  • 「共感」して大切に思っている動物を、ケージに閉じ込めて自由を奪うという矛盾
  • 「共感」して大切に思っている動物を、飼い主の都合で冷暖房なしの教室に置き去りにする矛盾

感性、感受性は人それぞれですから、これらの矛盾から上手に目を背け、ストレスなく欺瞞の関係を受け入れることのできる人間も大勢います。

しかし、本当に感性の豊かな人達の中は、これらの矛盾を無視できず、動物を飼うという行為自体に抵抗を覚える人もいるはずです。

感性の違いは多分に能力の違いのようなものであり、そこに「優劣」はあっても「善悪」は存在しないと思います。

ただ、私たち人間は社会的な生き物ですから、感性が人それぞれに異なっていようとも、どこかで線を引かなければならない場合も生まれます(異なる感性の人同士が住み分けできる場合もありますが、そうではない場合もあります)。

つまり、もっとも平均(あるいは中央)的な感性の人に合わせて社会の規範を作り、それ以外の人には妥協してもらう必要があるということです。

では今回の問題について、私たちの社会が定めたラインはというと「学校での動物飼育を許容する」という、この息子さんの感性からすると妥協を強いられる位置に引かれていると考えるのが常識的でしょう。

もちろん、このラインは不動のものではなく、社会全体の認識の変化によって如何ようにも変えることのできるものです。

そういう意味で、今回の息子さんの行動は決して無駄ではなかったと思いますし、善悪二元論で片付けることのできない微妙な問題だからこそ、こうしてじっくりと対話の機会を持てたことは、結果はどうあれ良いことだったと評価すべきではないかと思います。

本件の決着に関して、個人的には(私個人の「感性」に照らし合わせれば)また別の意見も無い訳ではないのですが、ここでは何よりも、この問題が個々人の感性の相違という、人間社会が抱える根源的な課題とダイレクトに繋がっている話だということを、まずリマインドしておきたいと思いましたので、決定の是非について直接触れるのは、また別の機会にしたいと思います。