「動物虐待はダメ」という偽善者たち

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「貧乏人は、十分なケアをすることができず動物のためにならないので、ペットを飼ってはいけない」という意見。

元記事のコメントやブコメを見ていると、どうも正論だと賛同する人が多数派のようで、すごく違和感を覚えました。

いえ、別に賛成意見がたくさん寄せられること自体はいいんです。

ただ、いつもネットで支持されている「とある定番のロジック」と明らかに矛盾する主張が同じネット上で普通に大勢を占めていることを、とても不思議に感じたということです。

皆さんも、今までに目にしたことがありませんか?

「動物愛護を訴えるベジタリアンは偽善者だ」という主張。

ネットの人たちって「動物の命を奪って食べるなんて可哀想」と言うと、それは偽善だとか、植物だって生きているのにとか言って、一斉にツッコんできますよね。

でも、その論法、今回のケースでそっくりそのままお返しできると思うんです。

「動物を虐待(ネグレクト)するなんて可哀想」 → 「それは偽善です」

ぶっちゃけた話、人間社会において「動物」ってのは、基本「モノ」扱いの存在です。

個人が金を出して所有権を得たペットに対して、殴る蹴るの暴行を加えようが、ネグレクトで衰弱死させようが、それは個人の自由でしょう。

あらかじめ注意喚起しておきますが、日本には、動物愛護法という法律があって、動物に殴る蹴るの暴行を加えたり衰弱死させたりすると犯罪に問われる可能性があります。

私は法治国家の一員として、法律の遵守はとても重要な事柄だと考えていますから、たとえ悪法であってもそれを犯すことを推奨するつもりは毛頭ありません。

ただ、法規範は置くとして、飼い主がペットをどのように扱うかについては、本来、個人の自由であって他人が口出しすべき問題ではないと思うのです。

動物愛護のベジタリアンに関する議論の中でよく出てくる意見のひとつに「ベジタリアンになるのは勝手。だが他人にまで自分のポリシーを押し付けるな」というものがあります。

これも、再び今回のケースに流用してみましょう。

「動物虐待をしないのは勝手。だが他人にまでそれを押し付けるな」

どうでしょう? ここまで言えれば、ベジタリアンに対する主張との整合性が取れていると思いませんか?

 

そもそも、一方で食べるために動物を殺すことは認めておきながら、他方で虐待はダメだというのは、理屈に合わない主張です。

これらはどちらも人間のエゴのために動物を犠牲にしているという点で、まったく同質の行為です。

「食べる」 → 「人間の肉体的な欲求を満たすための行為」

「虐待する」 → 「人間の精神的な欲求を満たすための行為」

さらに言うならば、

「ペットにする」 → 「人間の精神的な欲求を満たすための行為」

です。

そして、いずれの場合も、人間の勝手な都合で動物は犠牲になっています。

ペットは動物を犠牲にしていないと思っている人。

野生動物が勝手に軒先に巣を作ったのでもない限り、少なくともキッカケにおいて動物は強制的にペットにさせられているのです。

拉致監禁のうえ洗脳した相手を後からどれほど高待遇で饗したところで、相手の自由を侵害していることに変わりはありません。

 

私は別に「動物虐待を解禁にしろ」と主張するつもりはありません。

個人的には、動物愛護法は個人の権利を不当に侵害している悪法であると考えていますが、大多数の人間の感情が動物虐待への法による抑制を支持している以上、これを速やかに撤廃することは難しいであろうと諦めているというのが正直なところです。

動物愛護法がある限り「動物を虐待することに至上の快感を覚えるマイノリティ」の権利は明らかに侵害されている訳ですが、LGBTなどへの配慮がようやく浸透し始めてきたばかりの人類にそこまでの要求をするのは、さすがに性急なのかも知れません。

(幸いにして、私は動物が悶え苦しんでいる姿よりも、ノビノビと遊び回っている姿の方が好きなので、上記マイノリティには申し訳ありませんが、この件に関して他人事以上のスタンスでコミットメントする意欲はありません)

ただ、「食べる」のはいいけれど「虐待」はダメだという人は、その主張が矛盾を孕んでいるものだということと、他人の権利を制約するものだということについては、できれば自覚的であって欲しいと思うのです。

ネットリンチと「外野うるさい案件」

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このニュースに限ったことではありませんが、昨今のネットでは「確かに問題はあるけれど、大騒ぎするほどではない案件」というのが、必要以上に大きな話題として取り沙汰されるケースが多くあるように感じます。

いわゆる「炎上」や「ネットリンチ」などにも共通する話ではありますが、こうした「騒ぎ過ぎ」の状況は、場合によっては問題を逆に大きくしてしまったり、法的なスキームに拠らない私刑に繋がってしまったりと、マイナスの効果を生むことも少なくありません。(もっとも私もついつい無責任な発言を書き込むことがありますが。自戒を込めて、です)

今後、このような「あえて外野が口を挟まなくても(あるいは挟まない方が)問題が解決するのではないか」「まずは当事者に解決を任せて静観した方が良いのではないか」という微妙な案件を、カウンターの意味を込めて「外野うるさい案件」と名付け、ブコメでタグ付けをしていきたいと思います。

趣旨に賛同してくださる方は、ぜひ「外野うるさい案件」をご利用ください。

既婚者は家族を愛し、独身者は人類を愛する

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「社会貢献」という意見がほとんど見当たらなくて驚いています。

自分以外の誰かのために生きる。それが素晴らしい価値観であることは、多くの人が共感しているはずです。

だからこそ、「自分以外の誰か(配偶者や子供)のために生きることができない独身の人は何が生きがいなの?」という問いに対して、上から目線のマウンティングであると反感を覚えるコメントが多発したのでしょう。

しかし、独身であっても自分以外の誰かのために生きることは可能です。

社会のため、あるいは人類のために役立つ成果を残すこと。

それを人生の目的とするのは、家族のために生きるのと変わらないくらい立派な目的のはずです。

立派すぎて、気恥ずかしい。あるいは偽善的に感じられる。……そんな気持ちがあるのかもしれません。

しかし「家族のために生きること」と「社会のために生きること」に本質的な違いはありません。

相手のために何かをしてあげること。それが自分の満足に繋がる。

「家族愛」と「博愛」は、対象がちょっと違うだけで、中身はどちらも一緒のものだといっていいはずです。

独身だからといってディスられた気分になるのではなく、「お前は家族を愛するのが生きがいかもしれないが、オレは人類全体を愛するのが生きがいだ!」と力いっぱい宣言すれば、それで良いのではないでしょうか。

人が「共感」できる範囲は人によって違う ―学校でハムスターを飼うべきか議論から―

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この息子さんは感性、感受性がとても優れているのでしょう。

自分たちが生き物を「飼う」ことによって、その生き物が幸福になるのか、不幸になるのかを、生き物の立場に立って考えることができるというのは、つまり、自分以外の存在に「共感する能力が高い」ということです。

人間を含め、生物というのは元来、自分に近い存在には強く共感できる一方で、自分よりも離れた立場の存在には共感しにくいようにできています。

例えば同じ人間の中でも、自分自身の命は他の誰の命よりも大切に感じるのが普通で、次に家族、親戚や友人、知人、同じ地域やコミュニティの人、同じ人種や国籍の人、といった風に、自分から遠ざかるほど、その存在はどんどんと軽くなっていきます。

これは生物学的な分類においても同様で、通常、人間が一番大切に感じることのできるのは、やはり同じ人間。次に哺乳類、その他の動物、そして魚類、植物といった順番に共感の度合いが下がっていくのが普通でしょう。

もちろん個々の事例で、これらの順位が逆転することはいくらでもあります。

地球の裏側に住んでいる外国人よりも、毎日一緒に暮らしているペットの方が大切だとか、そういったケースは当然あり得ますし、場合によっては、遠くの人命よりも、近くの無機物(大切な記念品など)の方に、より強い共感を覚える場合さえあるでしょう。

つまるところ、人間の共感とか思いやりなどという感情は、「自分を取り巻く世界」が壊れて欲しくないというエゴイズムの変形でしかないということです。

大切なのは、この「自分を取り巻く世界」の範囲が、人によって異なっているということで、ごくごく身近な自分の周囲だけにしか強い共感を抱けない人もいれば、ありとあらゆるものに共感して同情してしまう、とても感性豊かな人もいるということです。

冒頭の事例、この息子さんの感性は他のクラスメイトの子たちよりも、きっとかなり豊かなのでしょう。他の子供たちはこの息子さんほどハムスターへの共感が強くないために、意識の乖離が生じています。

動物を飼うという行為は、基本的に動物を愛玩その他の目的のため道具として扱う人間の一方的なエゴイズムの発露ですから、そこにはある種の欺瞞が存在します。

飼い主は動物に対して「共感」を持ってはいますが、その一方で、両者の関係が構造的に同等ではない(飼い主が一方的に構築した関係である)点については、目をつぶります。この点に共感し、両者の関係を対等にしたいと望めば、そもそも動物を飼うという行為自体が成立しなくなるので止むを得ません。

そして、そんな欺瞞行為を成立させるためには、いくつかの矛盾を飲み込む必要があります。

  • 「共感」して大切に思っている動物を、ケージに閉じ込めて自由を奪うという矛盾
  • 「共感」して大切に思っている動物を、飼い主の都合で冷暖房なしの教室に置き去りにする矛盾

感性、感受性は人それぞれですから、これらの矛盾から上手に目を背け、ストレスなく欺瞞の関係を受け入れることのできる人間も大勢います。

しかし、本当に感性の豊かな人達の中は、これらの矛盾を無視できず、動物を飼うという行為自体に抵抗を覚える人もいるはずです。

感性の違いは多分に能力の違いのようなものであり、そこに「優劣」はあっても「善悪」は存在しないと思います。

ただ、私たち人間は社会的な生き物ですから、感性が人それぞれに異なっていようとも、どこかで線を引かなければならない場合も生まれます(異なる感性の人同士が住み分けできる場合もありますが、そうではない場合もあります)。

つまり、もっとも平均(あるいは中央)的な感性の人に合わせて社会の規範を作り、それ以外の人には妥協してもらう必要があるということです。

では今回の問題について、私たちの社会が定めたラインはというと「学校での動物飼育を許容する」という、この息子さんの感性からすると妥協を強いられる位置に引かれていると考えるのが常識的でしょう。

もちろん、このラインは不動のものではなく、社会全体の認識の変化によって如何ようにも変えることのできるものです。

そういう意味で、今回の息子さんの行動は決して無駄ではなかったと思いますし、善悪二元論で片付けることのできない微妙な問題だからこそ、こうしてじっくりと対話の機会を持てたことは、結果はどうあれ良いことだったと評価すべきではないかと思います。

本件の決着に関して、個人的には(私個人の「感性」に照らし合わせれば)また別の意見も無い訳ではないのですが、ここでは何よりも、この問題が個々人の感性の相違という、人間社会が抱える根源的な課題とダイレクトに繋がっている話だということを、まずリマインドしておきたいと思いましたので、決定の是非について直接触れるのは、また別の機会にしたいと思います。