歩けないエスカレーターのアイデア(ブレストごっこをしよう!)

anond.hatelabo.jp

もちろん、諸々の制約条件をすべて潰していくのは大仕事だし、実際やるとなると素人では想像もつかないようなハードルが色々あるのだろうことは分かるけど、なんとなく感覚としては絶対どうにもならないレベルの話とも思えないんですよね、この件。

なんで素人の自分がそう感じるのかなぁと考えてみたんですが、ひとつには「これまで真剣に検討したことがある人が少なそうだから」っていうのがありそうだと思いました。

チェスタトンのフェンスって話が出てたけど、フェンスが建てられた理由(歩けないエスカレーターが作られなかった理由)は単純に作ろうとした人がいなかったから、という可能性も多分にあるのでは、と。

だって、この件、何をどう対策するにしてもコストアップになる可能性が高そうですからね。

なんかラテラル・シンキング的なアイデアで一発逆転の可能性もない訳じゃないでしょうけど、そもそも今までと何かやり方を変えるっていうこと自体がコストですしね。

現状上手く機能しているものの改良って、よほど社会的要請が高まらないと誰も手を付けようとはしないですよね。

逆に言えば、仮に今が多少のコストアップを許容できるだけの社会的要請が高まった時代だと考えるなら、実現の余地は普通にありそうだと考えるのは別段おかしくない発想だと思うわけです。

そんな感じで「まあ、これまでほとんど真剣に検討されてこなかったことだろうし、世の中の空気も変わってきているので、今ならワンチャン行けそうな気もするんですが、プロの人はなんとか考えてもらえませんかねぇ」という気持ちでいるところに「誰もやってないことは出来ないことなんじゃね? 違うというならまずはお前が具体案出してどうぞ」と言われると鼻白まざるを得ない訳ですが、でもまあ、ブレスト的に思いついたアイデアを精査せず言いっ放しにする作業って普通に楽しいですから、そんなスタンスで考えてみましょうか。

99%ダメ出しされるの前提でも、数打って行けば、そこから突破口が生まれたりするもんですよね。ブレストの原則です。

 

とりあえず、私がパッと思いついたのは、数段置きに手すりからバーを伸ばす方法。

安全性や強度など諸々のことを考えると、長さはそんなに長くなくていいんじゃないですかね。

15cm~20cmくらいでいいんじゃないでしょうか。

これだと完全に「歩けない」という訳ではありませんが、要は大多数の人間が歩かなくなれば、あとはその人間たちが「歩けないエスカレーター」を実現するためのパーツ(障害物)として利用できる訳ですので、必要なのは厳密には「絶対に歩けないエスカレーター」というよりは「いかにも歩きたくなくなるようなエスカレーター」だと思います。

あと、ぶつかったり挟まれたりすると危険なので、なるべく柔らかいもの(スポンジみたいなもの?)がいいと思いますが、そうなると耐久性はどうでしょうね? その辺、知識がないので分かりませんが、ブレスト形式なので言いっ放し上等ということで。

ただ、これだと乗るときと降りるときに邪魔になりそうですね。

あと、下側逆向きに戻ってくるときに土台にぶつかってぶっ壊れます。

土台を貫通させると、今度は足払いされることになるので、いずれにしてもそのままでは実現はできそうもない。

やっぱりバーは人間昇降中と下降中以外の「人が静止して乗っている区間」だけに存在する形にしないとダメっぽいですね。

それ以外の区間は遮断機のように開閉させたり折りたたんだりするか、あるいはそもそもバーを紙風船みたいな素材で作って萎ませるか、マジックハンドみたいな蛇腹構造にしてビヨーンとまっすぐ横方向に伸び縮みさせるか、うーん、どんな方法がいいでしょう?

↑蛇腹式のマジックハンド

 

というか、いっそ手すりと一体化させないで、別口でバー専用の回転体を設置するのがベターかもしれませんね。

これなら既存のエスカレーターに後付も可能そうですし。

とまあ、あれこれ適当に言ってきましたが、これ以上細かいことは素人が考えても、どうせムラだらけ穴だらけになるので、ここらでストップしておきましょう。

そもそもこれがベストソリューションなんて胸を張る気はないですし、ブレストの一案に過ぎませんからね。

でもまあ、こうやってみんなでアイデアを出し合ったら、なんかできそうなレベルの話に思えるんですけどそれでもやっぱりダメですかね?

まあ、大喜利含めて、こうやってみんなで色々無責任にアイデアを考えるのは楽しいよね、ってところで、今日はおしまいにさせていただきます。

それでは。

 

追記

ちなみに私の本命は「歩いても安全なエスカレーターを作れ」派です。

具体案? 知らん。頑張れ。以上!

はてな匿名ダイアリーのトラバ記事を非表示にするChrome拡張機能を作りました

画面プレビュー

機能

はてな匿名ダイアリー(通称、増田)の記事一覧に表示されるエントリのうち、どっか別のエントリにトラバ(トラックバック/言及)している記事(「言及先エントリを開く」ボタンが表示されているエントリ)をまとめて非表示にします。それだけ。

 

インストール

こちらから

chrome.google.com

 

言い訳

当方、プログラミングは全くの専門外(いにしえのジオシティーズとかで培ったHTML/CSSの知識に毛が生えた程度のもの)ですので不具合があっても悪しからず。

はてなの仕様が変わると使えなくなるかもしれません。

誰かに怒られたらコッソリ消すかもしれません。

 

おすすめ

いわゆる増田ブクマカの皆さんとか、よろしければ。

 

よもやま

トラバにも面白いエントリはあるけど、自分がブクマする記事を探すときは親エントリばっか見てるなーと思って作りました。

トラバ職人の皆さんにおかれましては、ごめんなさい。

転売ヤー対策には公式転売ヤーを雇え

[B! 外食] 飲食店の予約の権利をオークション形式で売り出すというすさまじいサービスが開始「さすがにドン引き」「何がダメなの?」

前から言っているが、PS5とかも全部これをやるべきなんだよ。出荷量の一部だけオク形式やプレミア価格の直販にする。公式が金で解決できるルートを用意すれば、転売屋は絶滅する。それをやらないのはメーカーの怠慢。 - sangping のブックマーク / はてなブックマーク

 

転売の話題が出るたびにブコメしてきたことなのですが、改めて100文字では書ききれない部分について補足を。

 

まず最初に言っておかなければいけないのは、私は世の転売行為の大部分を特段悪い(規制すべき)行為だとは考えていないということです。

その理由は単純で、転売行為のほとんどが市場原理で駆逐することのできない外部不経済を用いたハックなどではなく、普通に市場原理で対抗可能な経済活動の一様式にすぎないと考えているからです*1

転売が問題となるのは主に買い占めによる市場価格の異常な高騰や品薄ですが、これは正規流通の側が適切な対応を行えば、直接に転売行為を規制せずとも問題にならない水準までその活動を抑止することが可能であると私は考えます。

その方法が、再三ブコメ等で書いてきた「公式によるプレミアム価格での販売」です。

この方法、理屈は非常に単純です。つまり、公式(主にメーカーを想定)自身が一部の商品を、転売ヤーの販売している価格と同等の高価格*2で直販することで「同じ値段なら素性の分からない転売品よりも公式のお墨付きのある正規品を買おう」という発想に購入者を誘導し、転売活動に旨味が無い状態を作り出そうというアイデアです。

公式側には転売ヤーに流れていた上乗せ分のプレミアム価格が入ってくるので損はありませんし、社会全体としても不必要な規制を設けずとも問題解決を図ることが叶います(リバタリアン的にはここ大事)。

もちろん、大部分の商品は従来どおり一般流通に正規の価格で流すことになるので、これで市価が高騰してしまうことはありません。

あくまでも新製品発売当初などの品薄になりやすい一時期に限って、転売ヤーに流れるはずだった顧客を公式で根こそぎキャッチアップして、転売ヤーインセンティブを無くすのが目的です。

具体的な方法としては、公式自身がオークションを実施したり、プレミアム価格での直販サイトを作ったりというパターンも考えられますが、これらは公式が自社の中にそれらのオペレーションに対応するための新たなシステムを構築しなければならない分、導入コストも必要となるため多少ハードルが高いものと考えられます(特に個別販売を想定していない製造専業のメーカーなどの場合は顕著)。

むしろ、私がオススメしたいのは、それらのオペレーションも含めてすべてのプレミアム品流通の活動を、既存の転売ヤーに一任してしまう方法です。

メーカーは、転売(オークションサイトの利用など)のノウハウを豊富に持っている「プロの転売ヤー()」と契約し、そこにある程度の数量の商品をプレミアム品として出荷します。出荷価格は卸価格ほど安い必要はなく、希望小売価格よりわずかに安い程度でも十分です。

あとはメーカーのホームページなりで公式転売ヤーのリストを公表しておけば、勝手に公式転売ヤーたちがいい感じの(闇転売ヤーよりちょっとだけお安めの)値段を付けて公式プレミアム品を売りさばいてくれ、次第に闇転売ヤーは駆逐されていくでしょう。

(更に発展的なアイデアとして、こうした「公式転売」を生業とする「プロ転売企業」を設立し、転売側から積極的に品薄を起こしそうなメーカー相手に上記モデルを営業していくというパターンも考えられます。誰かチャレンジしてみませんか?)

以上、なかなか良いアイデアだと思うのですが、どうでしょうか。

 

 

一方、現実には今のところ、こうした手法を取り入れているメーカーはほぼ存在しません。

理由はいくつか推察できるのですが、まず1つ考えられるのは、既存流通の顔を立てるため直販に踏み込みづらいというメーカー特有の事情が存在しているという可能性でしょう。しかし、今回のアイデアはあくまでも希望小売価格よりも高い値段のプレミアム品を少量販売するというものであるため、それが一般流通の正規品と競合することは考えづらいはずです。慣習として流通側への配慮で直販を控えるということはあるのかも知れませんが、そこに合理的な意味はあまりないように思えます。

また、第2の理由として、メーカー自身が「品薄戦略」を採るため意図的に転売ヤーを放置しているという可能性です。これは、上記プランによって公式が主体的に転売ヤー対策を行うことが可能であるというアイデアを世間一般の人々が持っておらず、品薄への批判が公式よりも転売ヤーへと集中する傾向が強かったため、公式がそこに乗っかった結果であるともいえるでしょう。つまり、多くの消費者が上記プランの有用性を評価し、メーカーの不作為を不誠実なものだと糾弾するような世論が形成された場合、この理由は解消に向かう可能性があると考えられます。

その他、意図的に品薄戦略を採らないまでも積極的に品薄対策を行うほどのインセンティブが公式側に存在しないといった可能性や、プレミアム価格での販売に「謎の」忌避感を持つ層への配慮といった可能性も考えられますが、いずれにしても世論の大部分が上記プランを支持するようになれば、公式が動かない理由は激減するでしょう。

 

要するに我々消費者が、プレミアム販売をして欲しいと強く要望していないことが公式の動かない一番の理由であり、これが変われば、転売ヤーに悩まされる現状も大きく変わっていくのではないかと私は考えるのです。

*1:一部、公正な手段を極端に逸脱した買い占めなどによる不当な転売行為が存在することは否定しません

*2:もしくはわずかにそれより安い価格

表現の自由性を保つために制約されるべき表現

まえがき

はてなブックマーク Advent Calendar というには、あまり一年の総括っぽくない&真面目腐った内容で恐縮ですが、この一年何度かブコメで書きたいと言ってきたテーマを書いてみました。

初めは読みやすく「です・ます」で……と思っていたのですが、なんかそれでは書き終わりそうもなかったので、とにかく書きやすさ優先でタイプしていったら、めちゃくちゃ固くて読みづらい文章になってしまいました。

内容もどうしても二重否定などが多く非常にややこしい話なので、自分でも読むのがしんどいくらいなのですが、この年の瀬に悪文を読み解いて頭の体操をしてみたいという奇特な方がいらっしゃいましたら、是非ともお付き合いいただければ幸甚です。(どうしても無理という人は「あとがき」だけでも読んでくれると嬉しいな)

それでは、しばしお目汚し、失礼いたします。

 

※この記事ははてなブックマーク Advent Calendar 2021 - Adventarの12月23日の記事です。

 

目次

 

本文

2021年も相変わらず表現の自由に関する話題が目白押しだった。

近年特に顕著なのは、公的機関による直接的な規制よりも、私人間で他者の表現の在り方について批判を行い「その表現には問題があるので、取り下げるべきである/修正すべきである/表現の場を限定すべきゾーンニングすべき)である」といった論旨を展開して自警団のように振る舞う論客の台頭であるように感じる。

専門用語としての「表現の自由」が、原則として国家と個人の関係の中で国家に対する縛りとして規定されたものと解されるのは既知の通りであるが、そもそも「自由な表現の担保された社会」の維持が社会的強者の専横を抑止し社会的弱者の権利を保護するための安全弁になるという民主主義の基本原則を鑑みれば、たとえ私人間であっても「社会において自由な表現の発露が担保されている度合い(以下、便宜上「表現の自由」と呼称する)」を安易に損なうが如き振る舞いは、公共の福祉によって制約を受けて然るべきであると私は考える。

一方、こうした表現への抑圧を企図した言説もまた、それ自体が「表現」の一部であることは確かであることから、特に論理的な補足なくこれを制約すべきと主張した場合、その主張もまた「表現を抑圧する表現」として制約されるべきであるという、一種のトートロジー的な自家撞着が発生する。

もっともこれは、あくまでも言葉遊びの域を出ない表層上の反論に過ぎず、要は例外事項として論理を補足すれば、それで矛盾は解消する。

すなわち、

  1. 表現の自由性を損なうような表現は、公共の福祉により制約を受けるべきである
  2. ただし、表現の自由性を損なうような表現に対して、その抑止を促すような表現については、特にその限りではないとする

という二段階の論理構成で原則を規定することは何ら矛盾をきたすものではないのだから、少なくとも理屈の上ではこうした主張は問題なく成立すると言い切れる。

ただ、このようにして特定の表現(表現の自由性を損なうような表現の抑止を促すような表現)を例外として扱うべきと主張する以上は、同時にそのような表現が他の表現と比較したとき、例外を設けるに値する何らかの特殊性を有していることを示す必要が生じるだろう。

この点、(これもまたトートロジー的な論法となるが)「表現の自由性を自ら毀損する表現を表現の自由性によって保護する行為は、その行為自体が表現の自由性を毀損する行為として矛盾する」という論理が、その特殊性を示す有力な論拠となると私は考える。

そもそも、上述の制約は表現の自由性を高い水準に保持することを目的としたものであり、これと真逆の結果をもたらす表現を例外的に保護の枠外とすることは、その本旨からしても何ら矛盾を生まないどころか、むしろ整合性の上で不可欠な要素であるとすら考えられるだろう。

 

さて、以上の通り、私は表現の自由性が社会的弱者を保護する上での安全弁として極めて重要な要素であるとの視点から、表現の自由性を損なうような表現はこれを公共の福祉によって制約すべき(これ自体が表現の自由性を部分的に損なう言説ではあるが、例外として制約の対象外とする)だと考えたが、この理念の実現にあたっては加えて考慮すべき事項が存在する。

それは、そもそも公共の福祉により制約を受けるべき性質の表現(他者の権利を著しく侵害する表現等)について、これを抑止するような表現は制約を受けるべきか、という疑問についてである。

結論から言えば、これらの表現については(外形上は表現の自由性を損なう表現ではあるものの)公共の福祉による制約の例外として、特に許容されるべきであると考えられる。

これは、そもそも公共の福祉により制約を受けるべき性質の表現というのは、それによって侵害される他者の権利との比較によって制約を受けるのが妥当だと解されるものを指すのである以上、これを許容するのは社会に対してデメリットの方が大きいということであり、必然的にそうした表現を抑止するような表現についてはメリットの方が大きくなる可能性が高いことが予想されるからである。

 

以上、これまで考察を行ってきた表現の自由性を損なう表現に対する制約の必要性について、結論をまとめると以下の通りとなる。

  1. 他者の表現を制約するような表現は公共の福祉により制約を受けるべきである
  2. 表現の自由性を損なうような表現に対して、その抑止を促すような表現については、1の限りではないとする
  3. 公共の福祉により制約を受けるべき性質の表現に対して、その抑止を促すような表現については、1の限りではないとする

また同時に、表現に依らずその他様々な実行手段によって他者の表現を制約するような行為についても、同様に公共の福祉による制約の対象とすべきであろう。

一例として挙げるならば、表現の差し止め、修正、ゾーンニング要求を目的とした署名や抗議、商品の不買運動などがそれである。

 

では、こうした理念を具体的に人々へと浸透させ、表現の自由性を高く保持し続けられる社会を構築するためにはどのような方策が考えられるだろうか。

まず第一に考えれるのは、人々への意識への働きかけである。

すなわち、上述の理念について広く共感を図り、2種の例外のケースを除き原則として他者のあらゆる表現についてこれを制約・抑圧するような行為・言動・表現は不当であり、避けるべき行いであるというコンセンサスを構築していくこと。

こうした意識がある種の社会常識として広く人々の共通認識となったならば、表現の自由性は今よりも高い水準で安定的に保持されるようになるだろう。

第二の方策として考えれるのは、法的な規制の導入である。

これはより強力な手段であり、当然のことながらその危険性も第一の手段に比べればはるかに大きい。

表現の自由性を保持する目的であるとはいえ、その手段として部分的とはいえ表現の自由性を狭めるような規制を導入することへ抵抗感は私個人としても少なからず存在する。

しかし考察の中で述べたように、他者の表現を制約するような表現を制約することは、表現の自由性を保持するという目的に照らして逆行ではなく、むしろ前進であると私は考える。

具体的な法制度の在り方について、慎重な議論が必要なことは無論であるが、ひとつの可能性として検討すべき考え方ではないかと思われる。

 

FAQ

その他、本文で触れられなかった主要論点についてFAQ形式で補足

Q:なぜ表現の自由性が重要なのか

A:表現行為の自由性を保持することは、民主主義社会の基盤かつ不可欠な前提であるため。
 表現の自由言論の自由)は弱者が強者による不当な抑圧に対抗するための最終手段であり、これを堅持することは民主的な手続きによって弱者の権利を保護するために極めて重要な事柄である。

※この点については、あえて私が語るまでもなく多くの法律家、思想家、論客によって説明が為されている考え方である一方、人によってその重要性についての捉え方に大きな温度差のある部分でもあると感じている。機会があれば改めて参考文献などを紐解きながら文章にしてみたい。

 

Q:他者の表現を制約するような働きかけ(制約を受けるべきもの)にはどのようなものがあるか

A:一例として以下の通り。

  • 公表差し止めの要求
  • ゾーンニングの要求
  • 表現修正の要求
  • 表現の差し止め、ゾーンニング、修正を目的とした圧力
    • スポンサーへの抗議
    • スポンサー商品の不買活動

 

Q:「見たくないもの(不快な表現)を見ない権利」は認められないのか
A:人権の一部として当然に認められるべきである。
しかし、一方でこうした権利の行使によって表現の自由性が損なわれることによる社会的なデメリットは甚大であることから、極めて特殊な事情が存在する場合を除いて、こうした権利に基づく表現への制約(ゾーンニングや表現の差し止め要求)は、公共の福祉により制約を受けるべきである。
これは「見たくないものを見ない権利」が専ら広く一般の人々の一時的な感情を保護するものであり、相対的に見て重篤な被害を継続的に被る危険性は低いと考えられるのに対して、表現の自由性が損なわれた場合、最初に権利が脅かされる可能性が高いのは社会的弱者であり、またその危害の程度もより深刻となり得ることが予想されることからも支持される。

 

Q:公共の福祉により制約の必要性が認められる表現とはどのような表現か
A:特定の個人に対して重篤な被害を与える表現である。
表現の制約の必要性については、専らその表現が直接個人に与える危害の大きさによって判断を行うべきであり、その表現が危害を加える個人の数(影響範囲)によって判断を行うべきではない。

これは、表現による危害は原則としてそれに対抗する表現によって回復を図ることを第一とすべきであり、そうした原則を設けなれば、安易かつ恣意的に表現への制約が加速していきかねないと考えられるからである。
例えば誹謗中傷や洗脳(マインドコントロール)などのように対象となった個人が直接的に深刻かつ回復困難な危害を被るケースについては相対的に表現への制約の必要性が高いと考えられる一方、その表現に接した人が単に不快感を覚えるだけのケースや、その表現に触れて感化された人々が増加することによって間接的に危害のリスクが高まるに留まるようなケースについては、いずれもそれに対抗する表現(元の表現を差し止める表現ではなく、元の表現の誤りを指摘したり、元の表現とは異なる価値観を提示する表現)を用いることによって危害を回避あるいは回復できる可能性が存在することから、相対的に制約の必要性は低いと考えられる。
なお、こうした原則に基づいて判断を行うならば、例えば個人を限定せず特定の属性の人々に対して攻撃や侮蔑のメッセージを発するいわゆる「ヘイトスピーチ」などは、その定義からいって必ずしもすべてが個人に対する直接的な危害の程度や回復困難性が高いケースばかりであるとは断定できないことから、制約の必要性については個別の事案に応じたより慎重な判断が望まれるものと考えられる。

参考:ゾーニングは規制か? - ドサンピン茶

 

あとがき

いかがだったでしょうか(←言ってみたかった)。

かなり過激なことを言っているのではないかという自覚はあるのですが、昨今の表現の自由性に対する無思慮(としか思えない)な言動やムーブメントの数々には、本当に危機感を覚えており、ここらでそれらと明確に対抗する動きを見せなければヤバいのではないかという思いが募る今日このごろゆえに、このような話を年末に書き起こすに至った次第です。

なお、本文やFAQに書き漏らしたことですが、今回問題として取り上げているのは「他者の表現」を抑圧する表現についてであり、発信者の一員が自分たちの表現について内輪でストップを掛けるケースは応用問題としてまた一考が必要だと考えています。

例えば、〇〇市の市議会がマスコットとして採用したキャラクターについて、市民以外の人間が差し止め等を要求するのは他者の表現の抑圧である一方、〇〇市の市民が発信者側の立場として差し止めや修正を主張するのはやや事情が異なるという考え方です。(もっともその場合でも、あくまでも発信者集団の一部でしかない個人が、どこまで全体の意思決定に異を唱えることができるのか、ストップの要望を発信する手段はどのようなやり方が望ましいか、など考えるべき事項は多くありますが……)

思えば数年前、ポリティカル・コレクトネスという言葉が日本で知られるようになった頃から「悪い思想」「誤った思想」を排除しようという主張が目に見えて勢力を増してきているように思われます(主観なので勘違いかもしれませんが……)。

人を傷つける表現、特定の属性の人を貶める表現、人を傷つけたり特定の属性の人を貶める社会へと思想を誘導するような表現。

こうした表現が消えることで、より良い社会が実現する。

それは、ある一面においては事実でしょう。

表現によって傷つけられる人がいなくなり、誰も弱者を傷つけないような世の中へと変貌すれば、今より社会は良くなるはずです。

しかし、そうした理想を信奉する人は、ひとつ決定的な事実を見落としています。

それは「悪い思想」「誤った思想」を排除しようとするならば、必ず誰かがその思想を「悪い・誤ったもの」だと判断しなくてはならないということです。

「悪い・誤った思想」を「悪い・誤った思想」だと判断するのは誰でしょう?

それはあるいは国であり、裁判所であり、「こういう表現は本当にまずいよね、儲からないよね」というふんわりとした社会的合意かもしれません。

しかし、いずれにしても、これらの背景には共通して、社会の多数派が構成する世論、マジョリティの論理が存在します。

「皆が正しいと信じる思想、皆が正しいと思う理念、それを追求するのが民主主義ではないか」と思ったならば、それは誤りです。

民主主義は少数の意見をきちんと汲み上げ俎上に乗せる。多数決は最終的な意思決定の際に用いられるひとつの手段に過ぎません。

そして少数の意見を汲み上げるために最後まで堅持しなければならない究極の人権が、思想の自由であり表現の自由なのです。

どんなに不当な差別に晒されていても、声をあげることさえできれば救済の可能性は残される。

逆に言えば、救いを求める声が閉ざされれば、もはや弱者が正当な手段で自らの権利を回復する道も閉ざされます。

表現の自由性が最大限に尊重されなければならないのは、まさにこのためです。

個人に深刻な危害が生じる場合を除いて、あらゆる表現に制約を設けるべきではないというのは、そうした制約の判断が常にマジョリティ(あるいは強者)の意見によって為されるものである以上、そこには弱者がSOSを発信する最後の手段すら奪いかねない危険性がつきまとうからに他なりません。

確かに世の中には見るに堪えない表現や、明らかに世の中にマイナスの影響を与えるであろう表現が蔓延っています。

しかし、こうした大多数の人間が眉をしかめて目をそむけるような表現こそ、真っ先に制約を受けやすく蟻の一穴となって表現の自由性を損なうキッカケとなってきたことは歴史を見ても明らかである以上、私たちは弱者の権利を保護するために、なによりもこうした「悪徳」とすら思える表現を、まず第一に保護していかなければならないのです。

本来、世の中を良くしたいという意欲に燃え、特に人権に篤い気持ちを持っているはずの人々が、よりにもよって、もっとも弱き立場の人々の最後の砦となるべき表現の自由性を安易に毀損しようとしている現状は、まさに悲劇と言っても過言ではありません。

どうか、弱者の気持ちに寄り添うことのできる人権意識の高い人々が、今少し思慮の幅を広げて、より深刻な権利侵害へと追い込まれた弱者の最後の希望を失わせることのないよう願っています。

 

ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ←「建設的にな~れ」のおまじない

 

 

 

 

憲法改正で大切なただ一つのこと

憲法改正の議論が加速しそうな政治情勢となってきている。

これについて思うところは色々とあるのだが、特に一点、これだけは言っておきたいと思うことがあるので、それを主張しておきたい。

 

【改正案の中に素晴らしい条文が99個並んでいたとしても、問題のある条文が1個存在しているならば、その改正を承認してはならない】

 

それが、私が憲法改正議論の前提として、最も重要だと考えている事柄だ。

 

改正案の中に問題がある条文が1個でも含まれているならば、躊躇うことなく改正反対に票を投じなければならない。

なぜならば、仮にそれで改正が否決されたとしても、99個の素晴らしい条文までが否定されたことにはならないからだ。

問題のある1個を修正した上で改めて改正案を投票にかければ、99個の条文が死んでしまうようなことは起こらない。

失われるのはスピードだけ。ただ、改正のタイミングが少し遅くなるだけだ。

だから、わずかでも疑念の残る条文が改正案の中に含まれるならば、そのときは躊躇することなく否決の側に天秤を傾けるのが賢明な判断になる。

 

これは普段の意思決定で正解とされるスタンスとは異なる判断基準であり、そこに違和感を覚える人もいるかも知れない。

世の中で通常行われる意思決定の多くは、仮に間違った決定を下してもそれを後から修正することが可能であり、その場合にはスピードを重視して「99のプラスと1のマイナスを相殺して98のプラスを目指す」という判断も下し得るケースが確かにある。

しかし、憲法改正はそうではない。

なぜなら憲法改正は不可逆的変化をもたらす可能性があるからだ。

一度の決定が不可逆的な変化をもたらす場合、そこでは何にも増して慎重さが重視される。

たった一つのマイナスが紛れ込んだとき、それを取り除くために想像を絶するような代償を求められる可能性もあるからだ。

だから、そのような毒が紛れ込まないよう極めて慎重に、わずかのミスも見逃さない態度が重要となってくるのだ。

 

最も恐れるべきは、99個の素晴らしい条文に目眩ましをされるような格好で、1個の危険な条文がろくに注目されることもなく承認されてしまうことである。

更に言うならば、危うい条文を可決させようと目論む者は、意図的に99個を迷彩として使用することも考えられる。

こうしたリスクを回避するために重要になってくるのは、実は「改正案に反対する側」のスタンスだ。

改正案に反対する者は、素晴らしい条文と問題のある条文のメリットとデメリットを足し引きして総合点で論理を組み立ててはいけない。

また、改正案が否決されたとき、鬼の首を取ったように「問題のある条文が国民から否定された」と勝ち誇ってはいけない

否決されたのはあくまでも改正案全体であり、個別の条文ではないからだ。

仮に改正案が否決されたとしても、それが国民による個別条文の否定であると主張するのは避けねばならない。

「改正の否決=100個の個別条文の否決」というロジックで反対活動を行わないこと。

改正の否決は、あくまでも「100個の条文パッケージの否決」であって、その100個の中には素晴らしい条文が含まれていた可能性を否定してはいけない。

「100個のうち99個は素晴らしい条文であった可能性」を留保し、一度は否決された改正案がわずかに部分修正されて再度投票にかけられることを許容しなければならない。

修正による再審議を許容すること。

それがあるからこそ、我々はたった1個の問題点が含まれることを理由に、堂々と改正案を丸ごと否決する正当性が担保できるからだ。

 

はてブ人気コメント算出アルゴリズム変更と自由で公平な表現の場 / ʕ•̫͡•ʔワンクリック入力用Chrome拡張機能を作った件

 

目次

 

はてブ人気コメント算出アルゴリズム変更と自由で公平な表現の場

ここのところ、立て続けに表現の自由*1に関連して苛立ちを感じる出来事が続出することが続いており、なんだか私とても苛立っております(リアル鬼ごっこ構文)

 具体的には、小林賢太郎氏の解任のキッカケになったアレとか、藤本タツキ氏の読切作品の登場人物に関するアレとかです。*2

 表現の自由に関する個人的見解については以前記事を書いたことがありますので(ゾーニングは規制か? - ドサンピン茶)今回は細かく語りませんが、個人がネットを介して群れとなることで公権力に比するパワーを持ち得る現代においては、こうした市民自身の手から表現の自由を保護するための新たな仕組み(法規制等)作りも真剣に検討する必要があるのではないかと思い始めています。

(この辺りのところは、そのうち考えがまとまったらもう少し詳しく文章にしてみたいと思っています)

 

まあ、そんなこんなで色々とモヤモヤした気分でいたわけですが、極めつけというか(時系列的にはラストという訳ではないのですが継続ダメージ的な意味で)トドメとなったのが、ご存知「はてなブックマーク」の「人気コメント算出アルゴリズム変更」の一件です。

bookmark.hatenastaff.com

 

ご承知の方も多いかとは思いますが、実ははてなブックマークの人気コメントの算出方法は今回の変更以前から単純なスター数順ではなく独自のアルゴリズムに基づくスコアによるものに変更されていました。

人気コメント算出アルゴリズムを変更しました。今後も改善を続けていきます - はてなブックマーク開発ブログ

↑の時点ですでに算出アルゴリズムブラックボックスされていた*3のですが、ブコメなどでは(使用感としてはスター数順とそこまで大きな違いがなかったこともあってか)さほど問題視されることもなく、むしろ好意的な意見の方が大きいように見受けられました。

そもそもはてなブックマーク利用者の間では、スター数順に表示される従来の人気コメントの仕組みに対する評判があまり良くなく、むしろ、そこに改善のメスが入るのであれば期待したいという声の方が大きかったように思われます。

従来のスター数順で表示される人気コメントの問題点としては、人気コメントに入ると多くの人の目に留まるためスターを獲得しやすくなり、後発のコメントが逆転困難となって良質なコメントが埋もれる原因となるという点や、この仕組みを悪用して早い段階で数人(数アカント)が連帯して工作を行えば、比較的容易に人気コメントとして注目を集め続けることが可能な点などが主に挙げられていたように記憶しています。

実際、これらの指摘は確かにもっともであり「スター数順」が「良質なコメント順」を実現する上でベストな算出方法ではないことは事実であると私も思います。

しかし、だからといって私ははてなブックマークが「スター数順」による人気コメントを廃止し、詳細の開示されていないアルゴリズム*4に基づいて人気コメントを表示するという改変が望ましい措置であるとは思いません。

多数の人間が言論を交わすプラットフォームにおいて、場を提供しているプラットフォーマー自身が個々のコメントを任意に取捨し、ある意見は大きく取り上げ、ある意見は小さく隠し、という操作を無制限に実施することを容認すれば、プラットフォーマーは容易にその場で交わされる議論の方向性を捻じ曲げ操作することが可能となってしまいます。

現状、そういった行為は明確に法律等に抵触するものではないと思われますが、そのような思想誘導、あるいは世論操作の余地(抜け穴)を安易に設けることは、本来プラットフォーマーが持つべき倫理に照らして望ましくない行為であると私は考えます。

ブラックボックス化したアルゴリズムに基づいて(恣意的な操作の検証性を無くした状態で)個々のコメントをどれだけの人の目に[触れさせるか/触れさせないか]について運営側が操作する行為。

それを安易に容認することは、健全な表現の場を損なう残念な方向性ではないかと私は感じます。

 

実のところ、この構造は既存の大手SNSでも以前から存在している問題であり*5、それらに比べれば、これまでの「はてなブックマーク」ははるかにシンプルで透明性の高い仕組みによって運営されてきました。

確かに「スター数順」で人気コメントを算出する方式には前述のような問題点が存在していましたが、それらはユーザー側から見ても既知のメカニズムによる現象であり、「先着コメントが有利な構造上、仕方がない」と各自が割り引いて判断することが可能なものでした。

しかし、算出アルゴリズムブラックボックス化され、あるいはアルゴリズム自体は公表したとしても、その計算式が複雑で結果から容易に算出の過程を直感できないものとされてしまえば、ユーザーとしてはそこにプラットフォーマーによる恣意的な操作の可能性を疑わざるを得なくなってしまいます。

いわゆる「表現の自由」は専門用語として限定的なニュアンスを持つため、ここでは「自由な表現の場」あるいは「表現行為の自由性」という言葉を使いたいと思いますが、言論・表現の場において、自らの言葉が何者にも操作されずプレーンな状態で相手へ伝達されるというのは非常に重要なことであり、「はてなブックマーク」においてこの点について逆行する改変がなされたことは、非常に残念で仕方ありません。

 

……と、ここまでアルゴリズム変更による問題点を書き連ねてきましたが、一方で一ユーザーとしては、前述の「スター数順」による人気コメント算出の問題点について、改善が望ましいという声もまた理解できます。

個人的には前述の通り、このような改変は自由で公平な表現の場が損なわれるという意味でとても残念に思うところではありますが、あえて妥協点を見出すとすれば、せめてブラックボックス化したアルゴリズムによるソートを使用している以上は、それが明確にユーザーに伝わるよう名称等を工夫するなどの対策を行って欲しいと思います。

「人気コメント」ではなく「運営者のお勧めコメント」などという風にプラットフォーマー自身の意向が表示に反映されていることを明示すること。

そのような配慮がなされれば、少なくともそれが「支持を集めている(≒人気の)コメント」だと誤認される可能性は減少するでしょう。

また、同時に従来の「スター数順」のソートについても、表示タブのひとつとして「スター数順」などの名称に変更の上で残してもらえれば、「運営者のお勧めコメント」との差を容易に比較することができ、より透明性を高めることが可能となるのではないかと思いますし、こちらも名称変更することで「スター数の多いコメント≠良質なコメント」であることが多少は鮮明になるものと思われます。

あまり期待はしていませんし、ここに書いても偉い人には届かないかとはおもいますが、そうなったらいいなぁくらいの気持ちで一応要望を記しておきます。

 

なお「文字数によって露骨に算出スコアが変動するっぽい」という新アルゴリズムの仕様については、問答無用で百害あってほぼほぼ一利もなしだと思われますので、早急な改善を期待したいところです。*6

 

以上、はてブ人気コメント算出アルゴリズム変更に関する所感でした。

 

ʕ•̫͡•ʔワンクリック入力用Chrome拡張機能を作った件

さて、今回は2本立てということで、ここからは全く違う話題です。

 

最近なぜかブコメ欄で ʕ•̫͡•ʔ の顔文字(?)を見かけることが急増しました。

クマちゃん(?)可愛いですからね~。

どうやら100文字制限のブコメでコメントを書いた後、文字数に余裕がある場合に ʕ•̫͡•ʔ を追加していくのがブームのようです。

クマちゃん(?)可愛いですからね~。

 

私もブームに倣って顔文字を入れてみようかなーと思ったんですが、ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔって意外とどこで切れるのか分かりづらかったり、文字数に合わせるのが面倒だったりで、コピペするのも一苦労なんですよね。

で、どうせなら楽して入力ができると、みんなもっと ʕ•̫͡•ʔ を積極的に使うようになってブコメ欄も和気あいあいとするんじゃないかなーと思ったんで、Chrome拡張機能を作ってみました

chrome.google.com

Chromeにこの拡張機能を追加するとブックマークページのコメント入力欄の下に ʕ•̫͡•ʔ ボタンが追加されるんで、コメントを入力し終わったらこのボタンをポチッとすると、残り文字数に合わせてコメントの末尾に ʕ•̫͡•ʔ が(千切れると悲しいのでキリのいいところまで)追加される仕様です。

f:id:sangping:20210727131303p:plain

当然はてな公式ではないし、プログラミングに関してはズブの素人が作った機能なので、おそらく不具合ありありソースはぐちゃぐちゃの代物ですが、お手軽にブームに乗っかってみたい方は試してみていただけるといいかと思います。

というか、先ほどgoogleさんの方での審査が終わって、ようやくこうしてブログを書いている現在、もはやブームも終わりかけの気配が漂っていたりもするわけですが、まあそこら辺も含めてご愛嬌ということで、何卒よろしくお願いいたします。

ちなみに私はブックマークするときはほとんど「はてな公式拡張機能はてなブックマーク - Chrome ウェブストア)」かスマホアプリを使うので、この自作拡張機能使う予定はございません

あと、どっかから叱られると嫌なので、割と早めにシレッと公開停止する可能性も高いので、そこらへんもあしからず、よろしくお願いいたします。

 

それでは皆さん、どうぞ良いはてブ人生をお過ごしください。かしこ

 

*1:今回の場合、専門用語として限定的なニュアンスのある「表現の自由」よりも、より広く「自由な表現」「表現行為の自由性」と言い表した方がいいかもしれません

*2:表現が不自由な感じの展覧会の件もありましたが、アレはまあまた別枠の話と捉えています

*3:記憶が曖昧なのですが、正確にはそれ以前からスパムの除外など限定的な操作はされていたのではないかと思います

*4:Yahoo! JAPANの「建設的コメント順位付けモデルAPI」についてはアルゴリズムがある程度開示されていますが、人気コメントについては「同APIの要素も加味し」ているだけで、全体としてのアルゴリズムは非開示の状態です

*5:Twitterのタイムラインにしろ、YouTubeのおすすめ動画にしろ、あるいはGoogleの検索結果にしろ、どのようなアルゴリズムに基づき、何回表示されているかはブラックボックスの中です

*6:こちらはどうやら改善の兆しはあるようですが、完全に多数ユーザーの不満が解消される状態には至っていないようです

「下戸はソフトドリンクもいらない」という不都合な真実(?)

いや、あくまで主観的な話なので「真実」かどうかは知らないですけどね。*1

 

comemo.nikkei.com

 

こちらの記事のお話です。

  • 「夜にお酒を飲むことを前提としているお店(居酒屋、ワインバル、ある程度高級なレストランなど)」は、世の中に「お酒を飲まない人」が思いのほか大勢いることを意識していない
  • それらの人も取り込んでいくよう努力することで、飲食店の裾野が広がり、ビジネスにもプラスに働くだろう
  • そのためにノンアルコールドリンクを充実させよう

みたいな論旨でして、まあ、あくまでも酒メインのお店が「プラスαで端金を稼ごう」くらいの発想としては分からんでもないですが、なんというか根本的に考え方がプロダクト・アウトに寄りまくっている印象が強く、顧客(下戸)のニーズを本気で実現する気は無さそうだなと「いち下戸」としては感じるのです。*2

あくまで主観ですが、下戸は飲食店にノンアルコールドリンクなど求めていない。

いや、求めている人もいるかも知れませんが、私は求めていないし、おそらくは求めていない人が多数派ではないかと思う。

だから、前述の記事が「ノンアルコールドリンクを求める下戸」だけを相手にしようという話ならば別にそれで構わないですし、私の話もここで終わりで構わないのですが、“2人に1人はお酒を飲まない”……と潜在マーケットの大きさを強調するのであれば「いやー、どうかな? 多くの下戸はそんなもの望んでいないと思うよ」と反論してみたくなるのです。

私の感覚では、酒飲みは飲食店に「食事と酒」を楽しみに行っていますが、下戸は「食事」を楽しみに行くのです。

決して「食事とソフトドリンク」を楽しみに行くのではない。*3

ところがマーケティングの視点が欠如したまま安易に売上や利益の拡大だけを目論むと、自分たちのビジネスモデルを崩さずにそのまま新規の顧客層を獲得できないかという方向に発想が向かってしまう。

しかし、単純に今のビジネスモデルのまま酒をノンアルコールドリンクに置き換えれば「客単価を維持したままマーケット拡大できる!」といった安直さでは、なかなか期待するような下戸の獲得は難しいのではないでしょうか。

下戸と飲食店に関する話は以前から何度も話題になっているためご承知の方も多いと思いますが、結局のところ、既存の飲食店のビジネスモデルが「食事と酒」両方を注文してもらって初めて適正な客単価となるよう設定されている点に、この話の難しさがある訳です。

「食事(と0円の水)」だけでは客単価が不足する。

だから、酒の代わりにソフトドリンクを……という話になる訳です。

まあ別にノンアルコールドリンクのメニューを充実させたければ、やってみるのは自由です。でも、個人的には「下戸はそんなの求めていないと思うよ」と言ってあげたい。少なくとも自分はソフトドリンクなんて注文しなくて済むならしたくないですからね。

 

じゃあ、飲食店は下戸を取り込むことはできないのか、というとそれはどうなんでしょうね?

前述のビジネスモデルの話でいうと、

 

売上 = 客数 × 客単価

 

という基本の式をもうちょっと分解して、

 

売上 =( 席数 × 回転率 )× ( 食事単価 + 酒単価 )

 

という風に分析したとき、ノンアルコールドリンクを充実させるというアイデアは、3つの変数(席数、食事単価、酒単価)の中身の数字は動かさず、単純にこの「酒単価」と同等の「ノンアルコールドリンク単価」を持つ新規顧客を獲得して回転率を上げようという発想ですが、

 

売上 =( 席数 × 回転率↑ )× ( 食事単価 + 酒orノンアルコールドリンク単価 )

 

これは私の感覚では下戸のニーズを満たしていない。

じゃあ、どうすればいいのかと言われると難しいのですが、なんとなく、まずは現状のモデルを組み立て直さないことには下戸の取り込みは難しいのではないかと思います。

つまり、下戸については酒単価は期待できないものと割り切る。

 

売上 =( 席数 × 回転率 )× ( 食事単価 + 酒単価

 

その上で売上を維持ないしは向上させるためには、当然、その他の変数(席数、回転率、食事単価)のいずれかをUPさせる必要がある。*4

では、どれならUPさせられるか。

と考えると、ある程度答えに近づくのではないでしょうか。

 

よくこの話題になると「酒を飲まないなら、その分食事が高くなってもいいんだな!」と安直なロジックが飛び交いがちですが、まあいい訳はありませんよね。

いや、別に高くするのは自由ですが、そんなことをすれば客が離れていくのは目に見えています。

店側としては3つの変数のうち仮に食事単価を上げようと考えたにしても、顧客に割高になったという印象を与えるのは上手くないでしょう。

しかし、だからといって「それでは内容も今より豪華にして、割高感は感じさせずに食事単価を高めるのはどうだろう」と考えてみると、これはこれでなかなか難しい気がします。

大衆店が高級料理をメニューに載せても注文する人はあまりいない。そんな事態になりそうな予感がします。

 

個人的に面白そうかなぁと思うのは、むしろ回転率をUPさせる方向ですね。

お酒を飲むことを前提としているお店のディナーは、一般に顧客の滞在時間がかなり長いものになるのが常識だと思います。

この低回転率に目をつけて、例えば席料を時間ごとの段階制(初めの30分無料、以降10分毎に○○円など)にしてみるのはどうでしょう?

これも個人的な感覚ですが、お酒を飲む人と下戸を比べたとき、一食にかかる時間はお酒を飲む人の方がかなり長い傾向にあるような気がします。

いわゆる会食の場合でも、独り飲みの場合でも、じっくり時間をかけて食事(とお酒)を楽しむのが、お酒を飲む人の特徴ではないでしょうか。

一方、下戸の人はもちろん会食を楽しむこともありますが、どちらかというと宴会の後半は酔っぱらいに付き合わされているだけというパターンも多いように感じます。*5

また、下戸の場合には「さっと食って帰る」という行動パターンが存在しますが、お酒を飲む人に「さっと飲んで帰る」というパターンはない気がします。

こうした傾向に着目すると、時間ごとの段階制席料は、下戸の人にさほど大きな忌避感もなく受け入れられるのではないかと思います。

ドリンクを注文した人については段階制席料を発生させないルールにすれば、お酒を飲む人への負担はありません。

もちろん、客単価を下げて回転率を上げるというのはビジネスモデルを変更することを意味しており、合わせて材料や設備、人員の構成も変更する必要も出てくる可能性があるため簡単に採用できるものではないと思いますが、飲食店素人のいち下戸としては、さっと食ってさっと帰れば「席料」も「ドリンク代」も「後ろめたさ」もいらない夜の飲食店があるのであれば、結構魅力的だなぁと感じるのですが、全国の下戸の皆さん、飲食店の皆さん、いかがでしょうか?

 

まあ正直、私はあまり外食をする方ではないので、仮にそんなお店が近くにあったとしても、毎週通ったりということはないと思うのですが、それでも無駄にノンアルコールドリンクが充実している飲食店よりは頻繁に足を向けることになるような気がします。

 

……もっとも、お酒を飲む人と一緒に行くときは、結局付き合いでホットミルクかなんかを頼んで「ママのおっぱいでも吸ってな!」とマスターに馬鹿にされたりするのでしょうが。(実はちょっと憧れ)

 

 

 

*1:「水でいい」という私のブコメにまあまあスターが付いていたので、それなりに同意する人は多そうですが

*2:なかなか端金を稼ぐのも難しい、みたいな話も出てきましたが……。https://anond.hatelabo.jp/20210226124417

*3:と思う

*4:ノンアルコールドリンク以外で下戸に刺さるような単価UPのアイテムを考案するという手もありますが、なかなか難しいでしょうね。デザートとか、お土産とか、いっそ食品以外のなにか……みたいなことも考えられなくはないですが、実際にチャレンジしている人もいそうな割に成功例は知りません

*5:もっとも下戸同士の会食だと酔いつぶれることがないため延々と会話が弾んでしまうというパターンもあるにはあるのですが……