ゾーニングは規制か?

tyoshiki.hatenadiary.com

 

論点整理を目指して、なるべく簡潔に書きます。以下、私見です。

 

Q:ゾーニング表現規制か?

A:表現規制である。

 仮に公権力によらなくとも「規則によって物事を制限する」行為は規制と言って間違いないと思います。

※参考までに、下記のような表を作ってみました。 *1

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Q:表現規制の何が問題か?

A:民主主義の根幹が脅かされること。

 「表現の自由」は民主主義の大前提です。民主主義はひとりひとりが自由に情報を入手し、その情報を元にひとりひとりが判断を行い、その判断を集約して合意形成を行うことで正しい答えを導き出そう、という考え方です。

前提となる「自由な情報の入手」が成立しなければ、民主主義は決して正しい答えを導き出すことができないのです。

 

Q:公権力によらない規制は問題か?

A:公権力による規制に比べればはるかに危険性は低いが、それでも危険性はある。

 一般に「表現規制」は権力側によって行われるものと考えられます。反対意見を封殺することで、体制の維持がしやすくなるからです。

しかし、公権力によらない規制(自主規制)であっても「自由な情報の入手が制約される」という結果そのものに違いはありません。また、形式的には自主規制の形であっても、実質的には公権力の圧力に基づくものであることもあり得るため、公権力によらない規制が無害であるとは言えません。

 従って、公権力による規制に比べれば小さいものの「表現規制の害」は存在すると考えられます。

 

Q:表現規制は一律で否定されるべきなのか。

A:否定されるべきではない。公共の福祉を優先すべきこともある。

 前述の通り、表現規制は民主主義の根幹が脅かす危険な行為ですが、それでも、その表現が他者に多大な不利益をもたらす場合などには、規制される必然性が高くなります。

 

Q:「公共の福祉により表現が規制される場合」とはどんな場合か?

A:その表現が他者の権利を著しく侵害する場合。

 その表現が他者の権利を著しく侵害している場合(「表現の害」が大きい場合)には、表現を規制する必然性が高くなります。

前述した表現規制によって発生する問題(表現規制の害)と比較して「表現の害」の方が大きい場合には、その表現は規制されるべきだと考えられるでしょう。

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Q:その表現が社会に貢献しているか否か(表現の利益)も含めて、表現規制の是非を判断すべきではないのか?

A:「表現の利益」の多寡によって表現規制の是非を判断してはいけません。

 世の中には「低俗な表現」や「高尚な表現」などという言葉があるように、様々な表現が存在しています。

しかし、民主主義の前提である「自由な情報の入手」を保護しようという立場でこれらの表現を眺めたとき、そこに一切の優劣をつけることがあってはなりません

なぜなら、何が低俗かを判断するのは個人ひとりひとりであって、他者がそれを事前に判断するものではないからです。

低俗な表現も含めスクリーニングなくあらゆる情報を自由に入手し、その情報を元に正しい判断を導き出していくことができる状態なくしては、健全な民主主義社会は成立することができないのです。

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Q:「表現の害」をどのような尺度ではかるべきか?

A:表現によって「個人」が受けるダメージの大きさを尺度として。

 「害の大きい表現」とはどのようなものかを考えるとき、私は「その表現が『個人』に与える危害の程度がどの程度の大きさか」という一点に絞って、害の大きさを判断すべきだと考えます。

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*2

例えば(実写の)児童ポルノは対象となった児童個人の人権に多大なダメージを与えますし、脅迫や恫喝なども同様に個人の人権を著しく侵害するのものです。

一方で、昨今話題となっているエロ・グロを含む表現は(上記の表現に比べれば)個人への危害は大きくないため、相対的に「表現の害」も小さいものと私は考えます。

また、この尺度を元に考えていくと、いわゆる「ヘイトスピーチ」や「(LGBT等)マイノリティへの差別的な発言」などについても、特定個人への直接的な危害は相対的に大きくなく、「(表現規制の対象を判別する上での)表現の害」は小さいものであると考えられます。

 上図でいうところの「右側」に行くほど「表現の害」は大きく規制の必然性も高い。「左側」に行くほど「表現の害」は小さく規制の必然性も低い。

この一軸によって「表現の害」を判断していくべきだというのが、私の考えです。

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Q:(ヘイトスピーチなど)間接的に個人への危害を及ぼす可能性のある表現については、その可能性を含めて規制の必然性を判断すべきではないか?

A:間接的な危害の可能性については、表現規制の根拠とすべきではないと考えます。

 特定の差別的な言論が放置され、そのような思想が拡大することによって、結果的に被差別者に危害が及ぶ(権利が侵害される)という現象は確かに存在します。

しかし、そのような間接的な危害の可能性を想定して予防的に表現規制を実施した場合、その運用は極めて恣意的になっていく危険性が非常に高いと私は考えます。

表現規制において最も重要なのは恣意的な運用を許さないことであり、その意味において直接性のない危害の可能性を規制の判断材料とすることは、厳に慎むべき行為であると思います。

 

 

以上、主に「表現規制の判断基準はどうあるべきか」という点に絞って、私見を述べさせていただきました。

最後に。本稿ではあえて「個別の表現について表現規制の対象とすべきか」については立ち入りませんでしたが、公平のために「私自身はかなり規制に消極的なスタンスであると自認している」ということだけは宣言しておきたいと思います。

*1:ゾーニングやレーティングは公権力によって行われることもありますが、ここでは省略しています

*2:プロットは私見によるざっくりとした一例です。実態とは乖離がある可能性があります。

ブコメの補足

緊急発表 (平成30年2月8日午前) 全国の地域公共交通を守るために、敢えて問題提起として赤字路線廃止届を出しました。 | 小嶋光信代表メッセージ | 両備グループ ポータルサイト

新規参入は認める。赤字撤退も認める。僻地の人間は自費で足を調達するか、都会に移り住め。……それが一番合理的で公平な判断。日本には居住移転の自由があるのだから。

2018/02/10 01:03

b.hatena.ne.jp

文字数の関係で書ききれませんでしたが、続きがあります。

 

  • だから長期的には、合理性・公平性を重視したコンパクトシティを志向すべきである。
  • ただし短期的には、合理性・公平性を犠牲にしてでも過疎地の人間を保護する移行期間が必要だろう。
  • 合理性・公平性に反した施策は民間に委ねられるものではなく、国民全体の選択(国策としての決定)が必要だろう。

 

以上です。

文字数制限のある中で、あえてこの後段の方を省略したのは、はてなでは「過疎地を保護すべき」という意見が大勢になるであろうことが予想できたため、その選択が不合理・不公平なものであることを強調しておきたいと考えたからです。

※不合理・不公平であっても実行しなければいけない場合もある、というのは上記のとおりです。問題は「いつまで」「どこまで」不合理・不公平な方針を取り続けるべきか、という点について、明示的に結論を導き出すことだと思います。

Nintendo LABOは布石に過ぎない

Nintendo LABOの何が凄いか。

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色々な人が、色々な視点からNintendo LABOを絶賛する記事を書いている一方で、何が凄いのか全く分からないという声も見受けられます。

anond.hatelabo.jp


特に多く見られるのはイデアの斬新さに対する賞賛の声ですが、個人的には今回のNintendo LABOの発表に関して「最も驚愕に値するポイント」は、もっと他の部分にあると感じました。

以下、私が「凄い」と感じたポイントについて話をしていきたいと思いますが、その前に一点、以下の話は「Nintendo LABOの企画がNintendo Switchの発売以前から進行していた」という推測を前提にしたものであるということをお断りしておきます。
発表タイミングなど諸々の状況から考えて、Nintendo LABOがNintendo Switch本体のローンチ以前からNintendo Switch関連プロジェクトの基本戦略に組み込まれていたアイデアであることはほぼ確実だと私は確信していますが、あくまでも証拠に基づかない推測である以上、この点が誤りであれば以下の考察はあまり意味を成さないものになってしまう可能性があるということは、事前に了承しておいていただきたく思います。

「ゲーム」ではなく「おもちゃ」を作った

さて、私がNintendo LABOを「凄い」と感じた最大のポイント、それはNintendo LABOで実現されているソリューションの本質が「ゲームではなくおもちゃである」ということにあります。
公開された動画などの中でダンボールを使って作られたガジェットのうち、私が特に驚いたのは「ラジコン」と「ピアノ」です。
一見すると、技術的なアイデアの斬新さ・面白さに目を奪われてしまうため、これらの異質性に気付くのが遅れがちになりますが、よくよく考えてみるとこれらのガジェットは「ゲーム会社」が提案する遊びのカテゴリとしては明らかに特異な存在です。
何しろ、これらのガジェットは、それ単体では何ら「ゲーム性」を持たない一般的な「おもちゃ」に過ぎません。私も子供の頃、親にラジコンを買ってもらって遊んだ経験がありますが、当然それは「玩具メーカー(おもちゃ会社)」が作った製品であって「ゲーム会社」が作った製品ではありませんでした。ゲーム会社は「デジタル技術」を武器にして「ゲーム性」のある「遊び」を提案し、おもちゃ会社が得意とする比較的「アナログ寄り」の「遊び」には進出しない。それがこれまでのゲーム業界の常識でした。そして、任天堂は今、この両者の間にある垣根を飛び越えて、おもちゃ会社たちの跋扈する「ガチのおもちゃ市場」という名の戦場へ殴り込みを開始しようとしている。私はNintendo LABOがその開戦の狼煙であると理解しました。

周知のように、任天堂のターゲットが低年齢層(主に児童)であるというのは今に始まったことではありません。ソニーマイクロソフトとの比較をするまでもなく、任天堂のメインターゲットが低年齢層であることに異論のある人はいないでしょう。
つまり低年齢層を相手に商売をすると決めた任天堂にとって、本当のライバルは今も昔もソニーでもマイクロソフトでもなく、あるいは(小学生相手では大きな課金を期待できない)スマホゲームでもなく、タカラトミーエポック社バンダイなどの「おもちゃ会社」であったと推察できるのです。
子供たちが「遊び」に使うことのできるお金、そして時間は、当然の事ながら有限です。クリスマスにサンタクロースが買ってくれる……もとい贈ってくれるプレゼントは、大抵ひとりひとつに限られます。子供たちが毎年毎年「どうぶつの森」の新作ソフトをリクエストしてくれれば万々歳ではありますが、仮に「ラジコン」や「ドールハウス」のブームが学校で巻き起こってしまえば、任天堂はそこに乗っかりたくても乗っかるためのタマを持ち合わせていない……というのがこれまでの状況でした。
このジレンマを一変させるために任天堂が満を持して繰り出してきた驚きの戦略。それこそが自社の「おもちゃ事業」への参入です。

今回、任天堂はソリューションをダンボールというチープな形に乗せて提案してきました。組み立てる楽しさ、知育玩具としての立ち位置の確立。それらは確かに理由としてもっともではあるし、狙いの一部には違いないと思われますが、より大きな意図は別にあると私は考えています。
それは、これがサードパーティに向けたプレゼンテーションの一環であり、あえて発展性を残した素のアイデア(ソリューションの核となる部分)だけを見せることで、彼らの想像力を刺激する作戦であるという可能性です。
前述の通り、任天堂は既存のおもちゃ会社に対して宣戦布告をしているのだと私は考えています。ただし、その戦い方は正面攻勢ではありません。あくまでも「ゲーム会社」としての強みを活かして、ゲーム会社らしい戦い方で、おもちゃ会社に向けて喧嘩を売っているのです。
ゲーム会社が持つ、おもちゃ会社には無い2つの強み。
それは「デジタル技術」と「ネットワーク外部性」です。

近年、デジタルゲームではない一般のおもちゃの中にも、デジタル的な要素を持った「ハイテク玩具」とでもいうべきおもちゃの一ジャンルが確立されています。
しかし、これらのハイテク玩具はデジタル部分に対して相応のコストが発生しているであろうことは想像に難くなく、逆に言えばここを削減できればコスト面で圧倒的な優位に立つことができるものと考えられます。
例えば、Nintendo LABOで実現したラジコンを、ダンボールではなくプラスチックなどで作り込んでサードパーティが発売したとき、おもちゃ会社が1から10まで自社で製造したラジコンよりもはるかに少ないコストで、同等の製品が実現できる可能性が生まれたのです。

結論を言いましょう。
任天堂が目指す戦略、それは「ゲーム業界でのノウハウを活用した、おもちゃ業界における新たなプラットフォームの構築」であると私は予想します。

任天堂はゲーム会社として、ソフトウェア会社と共にプラットフォームそのものを成長させる(ネットワーク外部性を活用する)戦い方を極めてきました。
プラットフォームビジネスのエキスパートである任天堂がおもちゃ業界に殴り込みを掛けるに当たって、このノウハウを活用しない手はありません。
任天堂サードパーティとして、どこを主なプレーヤーと想定しているかまでは分かりませんが、おそらくまずは、既存のおもちゃ会社とのタイアップを狙ってくるのではないでしょうか。
タカラトミーにしろエポック社にしろ、プラットフォームが成長し切った段階に至ってしまってからでは、もはやプラットフォームに参加する旨味は無くなってしまいます。
任天堂がまだプラットフォームの成長のため新規参入に対して下手に出ている早期のうちに一定のポジションを築くのが得策だと考える会社が複数現れれば、その時点で任天堂の勝利は確定したも同然でしょう。

それを実現した組織が凄い

以上が、私がNintendo LABOから予想した任天堂の戦略ですが、私が本当に「凄い」と感じた点は、この戦略を任天堂が思い付いたことではありません。
もちろん、戦略自体も素晴らしいものではありますが、それ自体は今の時点では成功するか否かも分からず、絶賛するほどのものではないと思います。
私が感動したのは、ゲーム分野で圧倒的な歴史と地位を築いてきた任天堂「ゲーム」という得意分野を離れて「おもちゃ」全般へと事業ドメインを拡張することができたこと。私はその組織文化にこそ、感銘を受けたのです。

冷静になって考えてみてください。
今、任天堂の一線で働いている社員のほとんどは、任天堂ファミコンの会社であると知って入ってきた人たちばかりです。
「自分たちはファミコンの後継を作るのだ」と燃えて入社してきたエンジニアが「これからはゲームではなくおもちゃ作りに力を入れていく」と言われたとき、はたしてどれだけの反発が生まれるでしょうか。
取引先についても同様です。今までゲームを作るために協力してきてくれた多くの取引先に対して「これからはゲームよりもおもちゃに重点を置くので、おたくとの付き合いは薄くなる」と躊躇いなく言うことのできる人がどれだけ存在するでしょうか。
しかし、任天堂は「世界のユーザーへ、かつて経験したことのない楽しさ、面白さを持った娯楽を提供すること」という基本方針を過度に小さく捉えることなく、この大胆な方針転換を既に完遂しました。

最初に述べたように、私はNintendo SwitchはNintendo LABOとそれ以降の展開を見越して設計されたものであると確信しています。
もしもNintendo LABOのような利用法をするのでなければ不要だったはずの仕様、逆に省かなければならなかった機能などがNintendo Switchにはきっと存在しているはずです。
Nintendo Switchは単なるゲーム機ではなく、周囲に様々な「ガワ」をくっつけることで新たなおもちゃを生み出すことのできる「おもちゃプラットフォーム」の核となるべく開発された製品でした。
賽は既に投げられているのです。
もちろん、大コケをしないようにリスクヘッジはしていることでしょうが、それでも任天堂はこのNintendo LABOのために既に多大なコストを投下しているのです。

私は任天堂の組織について深い知識を持っているわけではありませんが、ここまでの挑戦を成し遂げたという一点だけを以ってしても、任天堂にはいわゆるイノベーションのジレンマを打ち破るだけの「凄い」組織文化が根ざしているのだと評価せざるを得ないのです。

 

※最後に関連として、任天堂の組織について書かれた以下の記事が興味深かったため、ご紹介しておきます。

www.orangeitems.com

バリアフリーは障害者の不利益になる

anond.hatelabo.jp

この方は、障害者と健常者の負うコストが常に等しい社会を「真にバリアフリーな社会」と考えているようですが、実はこの「真にバリアフリーな社会」を目指すという方針それ自体が、障害者に不利益をもたらす誤った思想であることに、この方は気付いていないようです。

この勘違いは、この方に限らず世の中に広く浸透しており「バリアフリーの方向に進むことが無条件で障害者の利益に繋がる」と無邪気に考えている人は、少なくないように感じます。

では「真にバリアフリーな社会」の構築を目標にすることの、何が問題だというのでしょうか。

それは「真にバリアフリーな社会の構築」という目標が、コストの概念を完全に無視した、論理的に言って実現不可能な状態を目指しているからに他なりません。

このような言い方をすると、

「そんなことはない。そもそも障害者と健常者との間にわずかでも格差が存在すること自体が間違っているのだから、健常者がどれほど不便になろうとも、あらゆるコストを払って障害者と健常者の格差を完全に無くすことこそが、正しい社会の在り方だ」

などという反論をする人がいるかもしれません。

しかしこの考え方は、「障害者」という大雑把なカテゴリの中に、10人いれば10通りの「異なる事情を抱えた個人」が存在しているという事実を無視した机上の空論でしかありません。

そもそもこの問題は「障害者と健常者」の関係に限った話ではなく、世の中のあらゆる「マイノリティとマジョリティ」の関係に共通する普遍的なテーマです。

マイノリティの権利がマジョリティに対して制約されている状況を是正する行為――それが広い意味での「バリアフリー」の思想であると言えるでしょう。

けれど、現実問題として、世の中にある物事のうちマイノリティが生まれないものなど、何一つ存在しないと言っても過言ではありません。

例えば「男性と女性」。

例えば「右利きの人と左利きの人」。

「国籍」「人種」「容姿」「知能」「身体能力」「年齢」「健康状態」「文化」「宗教」「主義・主張」「職業」「アレルギーの有無」「経済力」「好きな食べ物」「ファッションセンス」…………

そして、これら無限に存在するマイノリティたちの権利を、手当たり次第無制限にマジョリティと同等まで高めていこうとすることは、特定のマイノリティだけを優遇する新たな格差へと繋がる危険な行為だといえるのです。

論理的に考えて、すべてのマイノリティの権利をマジョリティと同等まで高めることはできません。コストの問題がある限り、それは決して実現のしない幻想でしかあり得ません。

そして、コストの問題がある以上、私たちはどこかで妥協点を見つけ出す必要があるのです。

 

蛇足ではありますが、あえて具体的な話をしてみましょう。

コストの問題が存在しないのならば、世の中のあらゆる施設は、徹底してバリアフリー化を進めることが正解です。家賃2万5000円のアパートにも例外なくエレベーターの設置を義務化するべきですし、道路は路地の一本一本に至るまで漏れなく点字ブロックを設置して障害者が住みやすい社会を実現しなければならないでしょう。

飲食店はアレルギーを持った客のため、アレルゲンフリーのメニューを用意しておくべきです。うどん屋はいつ小麦アレルギーの客が来店しても良いように米粉で出来たうどんを準備しておくべきですし、アイスクリームショップは牛乳アレルギーの人のために豆乳アイスを常備しておかなかればならないでしょう。

ステーキハウスはベジタリアンのために豆腐ハンバーグを用意しなければなりません。寿司屋は生魚が苦手な人のために、リクエストがあればすべての寿司を加熱調理できるよう設備を整えておく必要があるでしょう。

性差別に関しても徹底的に改善を行うことが正しい選択です。いわゆる性的マイノリティの人たちのため、あらゆる公共施設には第3の性を自認する人専用のトイレを設置するべきです。さらに第4の性、第5の性を自認する人のために、それぞれ専用のトイレをどこまでも増設していくのが正解でしょう。

国籍によって不平等な扱いをすることは厳に戒められるべきです。外国人に向けた館内アナウンスは英語や中国語、韓国語だけではなく、タガログ語シンハラ語、ンドンガ語などでも行われなければなりません。外国人が訪れる可能性のあるすべての施設は、あらゆる言語について平等に通訳の人員を手配しておかなければならないでしょう。

 

……言うまでもなく、これらのすべてを実行できるようなリソースは、世界のどこを探しても存在しません。

ですが、この現実を考慮せず、「差別の撤廃」「バリアフリーの実現」を金科玉条――決して否定してはいけない無条件の正義であるかのように思い込んでいる人が、今の世の中には大勢いるように思われます。

繰り返しになりますが、これは大変危険で有害な思想です。

マイノリティは100%の権利を主張するべきではありません。またマジョリティも、マイノリティに100%の権利を与えるよう主張すべきではありません。

10人のマイノリティの便益をマジョリティと同等にするためには、その他90人のマジョリティの便益が損なわれる可能性を無視してはいけません。コストという概念が介在する以上、そこにはトレードオフの関係が成立するケースがほとんどだからです。

そして何よりも重要なのは、この便益が損なわれる可能性のある90人のマジョリティも、局面が変わればそこでは10人のマイノリティの側に立つことがあるという点、そして、社会全体でみれば、すべての局面において支払われるコストの出どころ(財布)は常にひとつであるという点です。

 

例えば、今回話題になっている車椅子への対応について考えてみましょう。

航空会社が車椅子の利用客に対応した設備を導入するにはコストが掛かります。今回はストレッチャーを導入したという話でしたが、これは上記で言うところの「真にバリアフリー」な対応であるとは言えません。本当に完全な形でバリアフリーを実現しようとするならば、利用客が車椅子であることを何も告げなくても、一秒のロスもなく、また一切のストレスなく、一般の乗客に混じってそのまま搭乗ができるよう、ボーディングブリッジ自体を整備するか、飛行機自体を改造するか、具体的な方策はともかく、非常に大掛かりな対策を行う必要があるはずです。

この対応に必要となるコストは誰が負担するのか。

当然、一義的には航空会社あるいは空港になるはずですが、それは結局、利用料の形で航空機の利用者へと還元されます。さらに、利用者の負担が高まったということは、利用者が普段の消費に用いることのできるお金が減少することに繋がりますから、その分、スーパーやデパートなどのお店の売上は減少することになります。こうして連鎖が続いていくことによって、バリアフリーのために用いられたコストは最終的に、社会全体のコストとして、すべての人間の上に伸し掛かっていくことになるのです。

 

問題なのは、まさにこの点です。

私たちの社会が負担することのできるコストには上限が存在します。企業はその活動によって世の中に新たな価値――剰余を生み出しますが、社会が誰かから偏った収奪を行うことなく負担することができるコストは、この剰余を上回ることができません。

ですから「車椅子利用者」という特定のマイノリティのためにコストを費やすことは、他のマイノリティ――例えば視覚障害者や聴覚障害者のために用いることのできるコストを減少させることと同義であると言えるのです。

これは非常に不合理な話です。なぜなら、世の中の様々な施策のほとんどは「収穫逓減」――つまり、完璧に向かっていくにつれて、費用対効果がどんどんと悪くなっていくという特性を持っているからです。

「テストで50点の子供が80点を取るのは簡単だが、80点の子供が90点を取るのは難しい」

これが収穫逓減の原則です。

この前提を考慮に入れたとき、マイノリティがマジョリティと全く同等の権利を主張することの傲慢さが理解できるのではないでしょうか。

あるマイノリティの権利が改善されるとき、他のマイノリティの権利は改善の機会を喪失していっているのです。にも関わらず、費用対効果を考えず、無制限に完璧に対等な権利を主張するのは、独善以外の何物でもありません。

「50点を80点にしろ」というのと、「90点を100点にしろ」というのは、本質的に全く異なる主張であるであるということを私たちは理解すべきです。

当たり前のことですが、現状、マイノリティの権利は不当に制約されています。方向として、よりマイノリティの権利改善に社会が邁進していかなければいかないという点については、疑う余地のない正論であると思われます。

しかし、社会は決してマイノリティに100点の対応を目指すべきではありません。

落とし所がどこなのか。80点なのか90点なのか。それは軽々に語れる問題ではありません。ただひとつ言えることは、問答無用で100点を目指すことが正義であるという主張に関しては、明らかに他のマイノリティの権利を侵害する誤ったメッセージであるということです。

今回の航空機の一件は、はたして、どこが社会全体にとって適切な落とし所なのかという問題提起を行ったという意味で、非常に有意義な出来事であったと言えるでしょう。

社会はこの「落とし所」について、もっともっと議論を深め、コンセンサスを高めていく必要があるはずです。

「無条件に100点を目指すことが正義である」と短絡して思考停止に陥ったコメントがそれなりの支持を集めている現状を見る限り、世のバリアフリーに対する理解は決して高いものとは思えません。

今回のネット上の一連の議論の成り行きは、より良い社会の実現のために、まずは、現実に即した議論を行える土壌をつくることから始める必要があるのかもしれないと感じた苦い出来事でした。

アパート住まいで簡易宅配BOXを設置した話

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ヤマト運輸の再配達や集荷予約サービスがなくなるかも?人手不足で宅配総量抑制へ「とうとう限界か」「料金高くなるかも」 - Togetterまとめ

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最近話題の宅配業者の負担緩和。再配達を減らそうという流れの中で、よく「宅配BOXがオススメだよ」という意見を目にしますので、参考までに個人的な体験談をご紹介します。

製品

私が使っているのはこちらの製品。

direct.sanwa.co.jp

お値段は確か4000~5000円くらい。

材質は「ターポリン素材」使用とのことで、運動会なんかで見るテントの生地みたいな感じです。

物件

住んでいるのはオートロック(セキュリティ付きのエントランス)などない、安アパートの一室。

集合郵便受けではなく、各戸のドアにドアポストが設置されているタイプの住宅です。

設置

設置したのは2年ほど前。

ドアポストの穴から固定用のベルトを引き込み、ドアにぶら下げる形で設置しました。

ベルトと同様に盗難防止用のワイヤーをドアの内側に引き込み固定ました。

一応ドアの外にも屋根はあるものの基本的に戸外で吹きさらしのため、外観は多少うすら汚れてきていますがそこはご愛嬌。強度的には劣化など感じられません。

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ドアの内側はこんな感じ。

郵便受け固定用の金具を、バンドとセキュリティワイヤーの固定に流用しました。バンドは金具の隙間を直接通そうとしたところ厚すぎたため、その場にあった麻ひもで中継してあります。

適当もいいところ。

見た目にこだわる人は、工夫が必要かもしれません。

(ちなみに郵便受けは確認を忘れがちなので、普段から外してあります。届いた手紙はそのまま玄関に落ちて散らばる(!)仕組み)

事前に不安だったこと → 実際には

大きい荷物が入らないのではないか?

袋型のBOXは下の方がすぼんだ形をしているため、大きさに多少不安がありましたが、実際にはそこそこ大きな荷物にも対応可能です。

Amazonで本を4~5冊まとめて注文するくらいなら、大抵の場合、余裕で入ると思います。

無論、入る大きさには限界があるため、ある程度以上の大きさの場合には再配達をお願いすることになりますが、その場合、不在票に「大きすぎて宅配BOXには入らないため持ち帰りました」などと経緯を記載してくれることがほとんどです。

ご近所の邪魔になるのではないか?

わずかではありますが、アパートの通路にせり出す形になりますので、他の住人からクレームの入る可能性があることは否めません。

私のアパートの場合は、幸い通路のスペース自体には余裕がありましたが、それでも完全な箱型のBOX(下記リンクのものなど)を通路に直置きするのは躊躇われたため、ドアにぶら下げられる現在のタイプをチョイスしました。

direct.sanwa.co.jp

(↑ 容量的には箱型も魅力的ですが、アパートの場合には少々使いづらい)

宅配業者がきちんとBOXを使ってくれないのではないか

せっかく宅配BOXを設置しても、配送員の人たちがBOXを使ってくれなければ意味がありません。

直接配送員の方に言えば対応してもらえるだろうとは思ったのですが、日本郵政やヤマト、佐川、などなどと複数の業者がやってくる上、担当者も入れ替わりが激しいようで個別にアナウンスするのはとても面倒です。

当初はAmazonの配送先住所に「宅配BOXを使ってください」などと追記することも考えましたが、とりあえず宅配BOX自体に記載されている「宅配業者に向けた使用方法の説明」が上手く伝わるのを信じ、不親切かとは思いましたが、特段の対策もせずいきなりBOXをドカンと設置して、様子を見ることにしました。

あくまでも私個人の場合ではありますが、この2年間、どの業者も(荷物が大きすぎて入り切らない場合や、別の荷物でBOXが埋まっている場合を除いて)ほぼ100%の確率で、宅配BOXに荷物を利用してくれるという結果になりました。

在宅時、荷物を直接受け取った際などに「ご不在のときは、これ(宅配BOX)に入れてもいいんですかー?」などと訊かれたことが5~6回はありますので、配送員さんもできればきちんと通知しておいて欲しいんだろうなーと申し訳なく思っていますが、特に何か連絡などをしなくとも、最低限「不在時には宅配BOXを使って欲しい」というこちらの意図は伝わると考えて良いようです。

在宅時もチャイムを押さず、宅配BOXに荷物を入れられてしまうのではないか

2~3回ほどではありますが、荷物が届くのを待っていたら、いつの間にか宅配BOXに入っていたということがありました。

多分、私がチャイムを聴き逃したのだと思います。

それ以外は常にチャイムを押してくれています。配送員さんにとっても、わざわざ自分でスタンプ印を押して、宅配BOXのファスナーを閉めて、南京錠を付けるというのは避けられるなら避けたい手間でしょうから、まずは在宅を確認する方が自然だという風にも思えます。

また副次的な効果ではありますが、チャイムが鳴ったとき、ちょうどトイレにいて応対することができず、慌てて飛び出したときにはもう宅配BOXに荷物が入っていたということもありました。

私の便意のせいで配送員さんには余計な手間を取らせてしまいましたが、再配達をお願いするのに比べれば、お互いにハッピーな結果であったとお許しいただきたく思います。

誰でも触れる場所に印鑑を置いておくのは危険ではないか

宅配BOXの中にはポケットがあり、ここに「スタンプ印」と開いた状態の「南京錠」を入れておく仕組みになっています。

配送員さんには荷物をBOXの中に入れたあと、自分でこのスタンプ印を受取欄に押印し、ファスナーを閉じて南京錠で施錠してもらいます。

つまり、荷物が入っていない宅配BOXの中には、誰でも触ることのできるスタンプ印が置かれている訳で、これはまあ、あまり気持ちの良い状態であるとはいえません。

正直なところ、この点に関しては明確に安全だとか危険だとか断言することはできませんが、とりあえず、宅配BOXの中に入れるスタンプ印は宅配BOX専用の印鑑として、他の用途には決して利用しないということだけは徹底する必要があると思います。(逆に言うと、それさえ守れば問題ないと「個人的には」判断しています。スタンプ印自体は誰でも100円程で買えるものですから、重要書類の印影と一致しない限り、設置した印鑑を悪用するメリットはないと考えています)

使ってみて気付いた問題点

初めの頃、南京錠を掛けてくれない業者がいた

宅配BOXを設置した当初、稀にですが、荷物を入れた状態でファスナー閉めてくれない配送員さん、ファスナーは閉めてくれても南京錠を掛けてくれない配送員さんに遭遇したことが何度かありました。

幸い、荷物に問題はありませんでしたが、さすがに防犯上不安があるため、同じような状態が続くようならば、お願いの電話を掛けようかとも思っていましたが、しばらくするうちに、そういったケースはなくなりました。(配送員さんの慣れの問題だったのかもしれません)

封書やダイレクトメールまで宅配BOXに入れられてしまう

本来、宅配BOXには荷物だけを入れて欲しいのですが、ダイレクトメールやメール便の類など、できればドアポストに入れて欲しいものまで、宅配BOXに入れられていることが何度かありました。

日本郵政を始めとした大手の宅配業者を通じて送られてくる手紙や請求書などについては、配送員さんも勝手が分かっているため、このようなトラブルが発生することもないのですが、大型の荷物を扱わないポスティング業者さんなどにとっては、宅配BOXが目立つためか、ドアポストに目が行かないことがあるようです。

もっとも、ポスティング業者さんは当然のことながら南京錠など付けていったりしないため、本命の荷物とバッティングして宅配BOXが埋まってしまうということはまずありません。

感想

以上、実際に宅配BOXを設置してみた私の個人的な気付きを列記してみました。

満足度としては95点くらい。些末な不満はあるものの、だからといって宅配BOXがない生活は考えられないと断言してもいいくらいに便利です。

特に一人暮らしの方は、通販に頼る機会が多い一方で、受取りに苦労することが多いと思いますので、条件さえ合えば、宅配BOXを設置するメリットは大であるといえるのではないでしょうか。

宅配BOX設置の際の注意点

宅配BOXは色々と便利だというお話をしてきましたが、注意した方が良いと思う点もいくつかありますので触れておきます。

盗難リスク

特に私が設置した袋型の簡易タイプの宅配BOXの場合、極端な話、袋を切り裂いてしまえば中身の荷物は容易に盗むことができてしまいます。もっとも、BOXを破壊して盗まれるリスクについては簡易BOX(マンション等の本格的な備付のもの以外)を使う限り、多かれ少なかれ存在しているものと思われますので、例え硬質タイプのBOXを選んだとしてもまったく考慮しない訳にはいかないでしょう。

また、前述のように、配送員さんが南京錠を付け忘れるケースも100%ゼロとはいえないため、リスクについては事前にきちんと検討しておくことが必要です。

リスク管理の方法としては

  • 治安を考慮する
  • 設置場所の見通しを考慮する
  • 高額品の利用を避ける

などが考えられます。

治安の悪い地域に住んでいる場合や、宅配BOXが道路などから丸見えになってしまう場合は、宅配BOXの利用は避けた方が賢明かもしれません。

また、高額品については、そもそも宅配BOXの利用を避けることも必要でしょう。通販の場合には、宛名に「宅配BOX不可」の記載を入れるか、いっそのこと、一時的に宅配BOXを撤去してしまうなどの対策が有効だと思います。

また、私が使用している袋型の簡易BOXは「荷物が入っているかいないか、外観を見れば一発で分かってしまう」という欠点(?)があります

幸い、私の住んでいるアパートは治安もそこそこ良く、また見通しも効かない好条件だったために袋型を使用することができましたが、これらの条件が満たされていない場合には、袋型の簡易BOXの使用については一考する必要があるかもしれません。

複数配達の調整

不在中に複数回の配達があった場合、当然のことながら、2件目以降の荷物については鍵の掛かった宅配BOXに入れることができず、持ち帰り再配達となってしまいます。Amazonからの配送については、お急ぎ便を使わない限り、別口の注文であっても同時に配達されるケースが多いように思われますが、別の通販業者を合わせて利用した場合など、配送が重なってしまうこともあり得ます。

極力、同日に複数の配送が重ならないよう心がけることで再配達を減らしていくと、より幸せになれるのではないかと思います。

最後に

宅配BOXはとても便利ですし、再配達が少なくなる分、宅配業者の負担軽減にも繋がるといわれています。

しかし一方で、配送員の方に直接荷物を受け取る場合には不要な押印と施錠の手間をお掛けしていることも事実です。

直接、配送員の方にお話を伺ったわけではないので、対面して荷物を受け取るのと宅配BOXに入れてもらうのと、どちらが楽なのか(望ましいのか)本当のところはよく分かりませんが、いずれにしても宅配BOXの利用を当然のことと考えるのではなく、配送員の方のご協力に対する感謝の心を忘れないようにしたいものです。

「動物虐待はダメ」という偽善者たち

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「貧乏人は、十分なケアをすることができず動物のためにならないので、ペットを飼ってはいけない」という意見。

元記事のコメントやブコメを見ていると、どうも正論だと賛同する人が多数派のようで、すごく違和感を覚えました。

いえ、別に賛成意見がたくさん寄せられること自体はいいんです。

ただ、いつもネットで支持されている「とある定番のロジック」と明らかに矛盾する主張が同じネット上で普通に大勢を占めていることを、とても不思議に感じたということです。

皆さんも、今までに目にしたことがありませんか?

「動物愛護を訴えるベジタリアンは偽善者だ」という主張。

ネットの人たちって「動物の命を奪って食べるなんて可哀想」と言うと、それは偽善だとか、植物だって生きているのにとか言って、一斉にツッコんできますよね。

でも、その論法、今回のケースでそっくりそのままお返しできると思うんです。

「動物を虐待(ネグレクト)するなんて可哀想」 → 「それは偽善です」

ぶっちゃけた話、人間社会において「動物」ってのは、基本「モノ」扱いの存在です。

個人が金を出して所有権を得たペットに対して、殴る蹴るの暴行を加えようが、ネグレクトで衰弱死させようが、それは個人の自由でしょう。

あらかじめ注意喚起しておきますが、日本には、動物愛護法という法律があって、動物に殴る蹴るの暴行を加えたり衰弱死させたりすると犯罪に問われる可能性があります。

私は法治国家の一員として、法律の遵守はとても重要な事柄だと考えていますから、たとえ悪法であってもそれを犯すことを推奨するつもりは毛頭ありません。

ただ、法規範は置くとして、飼い主がペットをどのように扱うかについては、本来、個人の自由であって他人が口出しすべき問題ではないと思うのです。

動物愛護のベジタリアンに関する議論の中でよく出てくる意見のひとつに「ベジタリアンになるのは勝手。だが他人にまで自分のポリシーを押し付けるな」というものがあります。

これも、再び今回のケースに流用してみましょう。

「動物虐待をしないのは勝手。だが他人にまでそれを押し付けるな」

どうでしょう? ここまで言えれば、ベジタリアンに対する主張との整合性が取れていると思いませんか?

 

そもそも、一方で食べるために動物を殺すことは認めておきながら、他方で虐待はダメだというのは、理屈に合わない主張です。

これらはどちらも人間のエゴのために動物を犠牲にしているという点で、まったく同質の行為です。

「食べる」 → 「人間の肉体的な欲求を満たすための行為」

「虐待する」 → 「人間の精神的な欲求を満たすための行為」

さらに言うならば、

「ペットにする」 → 「人間の精神的な欲求を満たすための行為」

です。

そして、いずれの場合も、人間の勝手な都合で動物は犠牲になっています。

ペットは動物を犠牲にしていないと思っている人。

野生動物が勝手に軒先に巣を作ったのでもない限り、少なくともキッカケにおいて動物は強制的にペットにさせられているのです。

拉致監禁のうえ洗脳した相手を後からどれほど高待遇で饗したところで、相手の自由を侵害していることに変わりはありません。

 

私は別に「動物虐待を解禁にしろ」と主張するつもりはありません。

個人的には、動物愛護法は個人の権利を不当に侵害している悪法であると考えていますが、大多数の人間の感情が動物虐待への法による抑制を支持している以上、これを速やかに撤廃することは難しいであろうと諦めているというのが正直なところです。

動物愛護法がある限り「動物を虐待することに至上の快感を覚えるマイノリティ」の権利は明らかに侵害されている訳ですが、LGBTなどへの配慮がようやく浸透し始めてきたばかりの人類にそこまでの要求をするのは、さすがに性急なのかも知れません。

(幸いにして、私は動物が悶え苦しんでいる姿よりも、ノビノビと遊び回っている姿の方が好きなので、上記マイノリティには申し訳ありませんが、この件に関して他人事以上のスタンスでコミットメントする意欲はありません)

ただ、「食べる」のはいいけれど「虐待」はダメだという人は、その主張が矛盾を孕んでいるものだということと、他人の権利を制約するものだということについては、できれば自覚的であって欲しいと思うのです。

天皇陛下の人権

www3.nhk.or.jp

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば:象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(ビデオ)(平成28年8月8日) - 宮内庁

刺されるかもしれないけれど、勇気を出して書きます。

大前提として、天皇制は人権侵害であり、憲法違反です。

選挙権がない、職業選択の自由がない、信教の自由がない、その他諸々の権利が出自を理由として制限されている天皇の人権は、著しく侵害されています。

平等権や基本的人権の尊重を謳った日本国憲法の中に、これらを無視した天皇制が定められていることは、決定的な自己矛盾だと言えます*1

その上で、私は象徴天皇制を肯定します。

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」

はっきり言って、意味が分かりません。

分かるような気もしますが、分かると断言できるほどには分かりません。

私だけではありません。憲法学者であっても意見が割れているのです。

グレーです。玉虫色です。

「象徴」とは一体何なのか? 読む人によって受け止め方が変わります。

それこそが象徴天皇制の真価です。

今の日本があるのは、象徴天皇制という良く分からない制度によって、右側の人も、左側の人も、納得半分モヤモヤ半分の気持ちを抱えながら、手を取り合って70年頑張ってこれたお陰です。

バランスです。それも危ういバランスです。

でも、日本人は70年もの間、その綱渡りに成功してきました。

時代時代の人たちが、必死でバランスを保つよう努力してきた結果でしょう。

さらに、何よりも大きいのは犠牲となられた天皇陛下の存在です。

明らかにその人権が侵害されているにも関わらず、あくまでも象徴としての立ち位置を崩さずに役目を果たして来られた陛下の犠牲があったからこそ、象徴天皇制は70年に渡ってグレーな形で存続することができました。

しかし、繰り返しになりますが、天皇制は人権侵害です。

本来あってはならないルール違反です。

ある意味において、日本国民は全員が天皇陛下の人権を蔑ろにした加害者だと言ってもいいでしょう。

可能であれば、一刻も早くこのような人道に反する制度は廃止するべきでしょう。

しかし、私は天皇制の廃止には賛成できません。

なぜなら、今の日本には満場一致で天皇制を廃止できるだけの世論が形成されていないからです。

天皇そして皇室というものに特別な感情を抱く国民は、現代でも決して少なくありません。

今、天皇制を廃止しようなどと言い出せば、絶対に猛反発が起こります。

せっかく、右も左もそれなりに仲良く70年頑張ってきたのに、喧嘩別れになることは確実です。

ですから、今はまだ、スケープゴートとして天皇という存在が必要です。

近代国家としては反則です。国のために一個人の人権を犠牲にするなど、あってはならない暴挙です。

それでも日本に天皇は必要です。

だから、頭を下げて、心の底から敬意と謝意を込めて、お願いするしかありません。

「どうか、私たちのために犠牲になってください」と。

そうして70年間、私たちは歩んできました。

私たちは多大な犠牲の上に立っているのです。

だからこそ。せめてもの償いとして、辞めたいと言われたときには「わかりました」と二つ返事で応えるべきだと私は思います。

言うまでもなく、象徴天皇制という制度を考えれば、天皇陛下が「辞めたい」と述べること、それ自体が本来はグレーな行為です。

それを踏まえた上で、それでも今回こうしたメッセージが発せられたことに、私は本当に心から申し訳ない気持ちでいっぱいです。忸怩たる思いとはこのことだと思います。

万難を排して、お気持ちを叶えて差し上げるべきだと思います。

人生の大半を非人道的な制度の維持に捧げてこられた方を報いるに、その程度のことさえ出来なければ、陛下が支えてこられた国家とは何だったのかと言われても仕方がありません。

将来、100年後か200年後か、あるいは1000年後か8000年後は分かりませんが、天皇を含めたすべての人の人権が尊重され、それでも国家が安定して国民が動揺することのない時代がやってくるそのときまで、私たちは犠牲となられる皇室の方々に最大限の敬意を払いつつ天皇制を護持していく必要があるのだと思います。

*1:そもそも天皇は人権の客体である国民ではないとする説もありますが、たとえ国民で無かったにせよ、同じ国に生まれた特定の個人の権利を差別的に制約することが、倫理に甚だしくもとることは間違いありません